「三方領地替え」で川越藩は庄内、庄内藩は長岡、長岡藩は川越へ。

三方領地替え計画
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川越藩主・越前松平家の松平斉典(なりつね)は、川越藩から裕福な庄内藩への移封を画策します。
越前松平家の債務を整理するためです。

越前松平家は、徳川家康の次男・秀康を家祖とします。
転封が重なり200億円もの借財を抱えていました。
大名は、土地持ちではありません。
川越藩主・松平斉典(なりつね)は11代将軍・ 徳川‎家斉(いえなり)の子を養子に迎えていました。
11代将軍・ 徳川‎家斉(いえなり)の55人の子のうち、25男目を養子にもらい受けました。
川越藩主松平斉典は、11代将軍・徳川 ‎家斉から「斉」の字を賜っています。


川越藩主・松平斉典(なりつね)は、以前に老中首座の水野忠成に播磨姫路への転封を願いました。
しかし水野忠成が急逝したため、その願いが頓挫しました。

越前松平家は姫路藩、山形藩、白河藩、川越藩、前橋藩と転封を繰り返します。


1840年、幕府より庄内藩、川越藩、長岡藩へ三方領地替えの幕命が出されます。
   ・ 庄内藩主・酒井忠器(ただかた)は、越後長岡藩へ
   ・ 越後長岡藩主・牧野忠雅(ただまさ)は、川越藩へ
   ・川越藩主・松平斉典(なりつね)は、庄内藩へ

庄内藩の農民たちは、領地替えの命令を阻止します。
江戸にのぼり、命がけの反抗で、幕府に強訴(ごうそ)します。

この訴えは、義民一揆で善政藩主を守り抜く運動として江戸の世論を沸かせます。

他の諸藩からも三方領地替えについての質問状が出され、幕閣の間でも意見が別れます。

この間、11代将軍徳川家斉が死去します。
家督を継ぐはずの徳川‎家斉からもらい受けた養子 も早世しました。


翌年1841年、領地替えの幕命は撤回されました。


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川越藩主をつとめた越前松平家藩主

川越藩主・越前松平家の廟所は、喜多院にあります。
7代が100年、川越藩主をつとめました。
5人の藩主:朝矩(とものり)、直恒(なおつね)、直温(なおのぶ)、斉典(なりつね)、直候(なおよし)

越前松平家= 松平大和守 = 前橋松平家


【文献】
藤沢周平『義民が駆ける』
中村彰彦『北風の軍師たち』 
国立歴史民俗博物館『地鳴り 山鳴り』
黒須繁」『武蔵野』351、352
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1138475751

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