「江戸城」に隠された太田道灌と菅原道真の関係
2017/2/10 dot.江戸城・皇居 案内図
現在は天皇のお住まいとして皇居と呼ばれている場所は、明治時代以前は江城(こうじょう)あるいは千代田城と呼ばれるお城だった。総周囲は4里とも言われ、もちろん日本最大の城郭である。
江戸城を最初に城として築いたのは、室町時代の末期、戦国時代と呼ばれていた頃に、関東に勢力を持っていた扇谷上杉家の家臣・太田道灌だという。
●東京のパワースポットに欠かせない太田道灌の名前
関東に住み、かつ歴史に興味がある人でなければ、太田道灌という名にはピンとこないかもしれない。だが、私のように関東一帯で神社仏閣ばかりを取材している人間にとって太田道灌は、現在残る寺社の歴史を調べれば、かなりの確率で耳にする名前である。
多くの寺社を勧請し、建立した太田道灌が築城に関わったという時点で、江戸城が地学的にパワースポットとして造成されていくことになる基礎ができたと言ってもよいかもしれない。
●道灌の城造りは寺社勧請とともに
道灌は城の築城にあたり、まず、現在は赤坂にある日枝神社を城内に勧請(かんじょう)した。
また、京都・北野天満宮から勧請して菅原道真を祀った社を建て、さらに、掘った井戸から出てきた銅印を祀って吉祥寺(現在は本駒込に移動)を建立した。鬼門側(建物の中心から見て北東方位)には柳森神社、西方には市谷亀岡八幡宮を勧請、目青不動を移転、裏鬼門(建物の中心から見て南西)に品川神社や西久保八幡などを整えている。道灌の名前が出てくる寺社は相当数に上るのでこのくらいにしておくが、当時の戦況を考えると、江戸城の守りは連戦連勝の道灌にとってさえも重要な要だったといえそうだ。
●徳川幕府は風水で江戸城を固めた
江戸時代になり、城は天下普請と呼ばれる大造営が施されていく。
家康の参謀と言われる僧・天海は、江戸の町を風水的に安定している京都の町と同じに造営しようと考え、寺社や川、道路などを配置した。
その上、城の守りを堅固にもできるため、河川のつけかえ、街道の整備、海岸の埋め立て、門や橋の造営など大掛かりな普請を続けた。工事は千代田のお城だけにとどまらず江戸中に影響するほどのもので、お城の南側に広がっていた日比谷入江の埋め立てが始まったのが1603年、神田川の拡幅工事でその普請の一切が終わったのが1660年。すでに時は4代将軍・家綱の時代となっていた。
●紅葉山はもっとも神聖な場所に
皇居の周りの地名には「門」や「橋」のついた地名が多いことに気がつかれるだろう。江戸城に近づくには、いくつもの橋を渡り、門をくぐる必要があった。神田川や隅田川の流れを変え、江戸へ入る道・五街道を整備することで、人の出入りの監視を強化することができたのだ。さらに、これらの要所には寺社を配置、またもともとあった有力な寺社に寄進することで、邪気が江戸に入りにくくしたのだとも伝わっている。
また、江戸城の中にも東照宮を造営し(明治政府により廃された)、歴代の将軍の霊廟(れいびょう)が作られたのだが、この場所が今も皇居の中に残る紅葉山である。現在は御養蚕所が建てられており、皇后が養蚕作業を引き継がれている。天皇家にとっては、神話時代から続く神聖な作業が行われている場所だといえるだろう。
●江戸城に残る道真ゆかりのもの
話はそれるが、東京・大手町に首塚のある平将門は菅原道真の生まれ変わり、将門となった菅原道真は太田道灌に生まれ変わった、という俗説が存在する。これは、太田道灌の父が道真という名であったこと、道灌もまた将門のように首だけが別に祀られている首塚があることなどから、いつしかまことしやかに語られるようになったのだろう。だが、今のところ将門や道真のような怨霊話を道灌に関しては寡聞にして知らない。一方で、道灌は菅原道真を大変尊敬していたようでもある。
なにしろ道灌は、神社を城内に建立しただけでは飽き足らず、菅原道真を祀って梅林も作っている。その場所が今でも都内の梅の名所として知られている皇居東御苑の「梅林坂」だ。菅原道真を祀る天神さまに、梅の木はもちろん欠かせないものではあるが、さらにそのそばに天神堀というお堀まであり、その傾倒ぶりには驚かされる。生まれ変わり説はもしかしたら、道灌自ら吹聴していたのかもしれない。
さて、現在の梅の木は昭和に植樹されたものだが、まさに今がみごろの開花状況だ。私が訪れた日は海外からの旅人が多かったが、太田道灌と徳川幕府がともに力を集約した場所は、今ももちろんパワースポットとして多くの人々を魅了していることは間違いないだろう。
(文・写真:『東京のパワースポットを歩く』・鈴子)
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