島原・天草一揆とは史上最大の一揆。松平信綱



1637年の「島原・天草一揆」はかつては「島原の乱」とよばれていました。


しかし、「乱(=反乱)」ではなく、日本史上最大規
模の百姓「一揆」でした。

一揆(いっき)とは、反領主闘争です。
農民などが支配者に反抗した共同行動です。

38000の島原・天草人が犠牲になりました。
キリシタン一揆というより、大規模な百姓一揆でした。
松平信綱が、総大将となりました。
幕府は12万の大軍によりようやく鎮圧しました。


一揆が起こったのは、一か所でなく、
長崎県の島原と
熊本県の天草でした。
このため、「島原・天草」と表記するようになりました。

松平信綱は、この功で忍(おし)城主3万石から、川越城主6万
石へ加増されました。
これより、徳川幕府は、幕府の方針を家康・秀忠・家光の
「武断政治から文治(ぶんじ)政治」へと大きく切り替えます。

刀の政治から学問の政治への転換です。

しかし、一揆鎮圧に参加した川越藩士のなかでは、仏の道に
反することをした、として地蔵信仰、悪霊除けがはやったとも
いわれています。
川越には、キリシタンの囚人も囚われていました。

松平信綱が「川越まつり」を奨励したのは、この折でした。


【付記】

松平信綱は、官職の伊豆守をもじって、「知恵伊豆(→ 知恵の泉)」とよばれていました。

3代家光は、自分の「右手は酒井忠勝、左手は松平信綱」と頼
にしていました。


【名言】

(島原・天草の一揆がもう再びないように)
「川越まつりで、この世を楽しく」

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