2010/08/02

川越・光西寺は「士族寺」。士族寺って?竹島。間宮林蔵

  ***川越の文化財

川越観光  第9回  「光西寺  @@@  」


(この下からリード) -----------------------------------

お供寺(おともでら)  浜田市- 棚倉町- 川越市  徳川家の文書@@@



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【キーワード】
  • タイトル
  • リード
  • お供寺
  • 松平康英(やすひで)
  • 松平周防守  維新に元の松井姓に
  • 徳川文書


【写真】
  1. 写真  光西寺略歴案内板
  2. 写真 かえるととかげ
  3. 写真  松平周防守家廟所
  4. 企画展  p10 葵御紋大旗 ?
    松井家初代・康親が徳川家康より拝領。
  5. 企画展  p13 万字の鑓穂
    松井家初代・康親が徳川家康より1575年に拝領。日本3名槍のひとつ。
  6. 企画展  p21 川越城図  
  7. 企画展  p40  元康→ 家康 の花押
  8. @@@

光西寺(こうさいじ)HP 川越市小仙波町5-4-7:地図 浄土真宗本願寺派
浜田市(島根県)→ 棚倉町(福島県)→ 川越  竹島  松平家  徳川家

@@@
築地本願寺が@@@  川越ではここだけ
松井松平家とは
寺報
温知会

法話  自然法爾(じねんほうに)
仏にすべてをまかしきる。


『無別道』


『第三回企画展  松平周防守と川越藩』川越市立博物館、平成3年
元康から家康へ  p40  直筆  三河の時代・今川がなくなって1年目  広済寺にあり  くまのせいし
石川正西聞見集  p49
竹島事件

松平周防守略年表

間宮林蔵
長州、薩摩を調べ、

見立寺(けんりゅうじ)にも4代の位牌が  p71


参考文献:

http://www.kousaiji.org/index.html

http://www.kawagoe-yell.com/sightseeing/kousaiji/

http://blog.livedoor.jp/koike631/archives/52145051.html

http://www.hongwanji.or.jp/


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川越の喜多院から、東照宮をすぎ、中院に至ると、隣が光西寺(こうさいじ)です。

光西寺は、浄土真宗に属し、親鸞聖人が宗祖です。


光西寺は、
  島根県浜田藩、
   ↓
  福島県棚倉藩、
   ↓
  川越藩
と藩主の国替えと共に、藩についてきた寺ということで「お伴寺」(おともでら)とよばれています。す。



浜田市  島根県西部の漁港

【※】

浄土真宗本願寺派は、@@@
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光西寺は、1566年島根県浜田市に建立され、浜田藩士の菩提寺(先祖の墓)として尊崇されてきました。
(織田信長が今川義元を襲った桶狭間の戦いの頃です。)


1836年、浜田藩は日本海の竹島を根拠地として外国との貿易を行っていたことが間宮林蔵(まみやりんぞう)の調べで露見します。
藩は本来ならば御家取り潰しになるところでしたが、
徳川家の親藩ということで、
福島県棚倉(たなぐら)への左遷にとどまりました。
光西寺も家臣ともども転住しました。


1866年、棚倉藩主・松平康英(やすひで)は川越城主(1866-1869)転封となります。
光西寺も家臣とともに川越に転地しました。

維新の危機に直面した幕府が、
内外の重要政策に
松平康英の手腕に期待したからでした。

松平康英は、幕府派遣の最初の遣外使節団の副使として、1861年に欧州へ交渉のため出かけています。
この間幕府の老中も兼務していました。

好学の名君・松平康英は、藩校の長善館を1867年に川越の宮下町に開きました。


光西寺は、1867年、明治の前年、家臣とともに養寿院に仮寺を求めました。


1928年(昭和3年)に現在地に小堂を建立しました。


藩に、家臣も寺も、ついてきた寺ということで士族寺とよばれています。

1904年、松平康英は、74歳で没しました。
光西寺に廟(びょう)があります。

【※】廟@@@


光西寺には川越藩関係の文書700点があり、家康の書簡などは文化財となっています。

川越市と福島県棚倉町とは、川越藩・棚倉藩の藩主に松平康英を抱いたことが縁で、友好都市となっています。


棚倉町関係からの親戚や関係者が川越市には在住しています。

【参考文獻】
光西寺寺報 『無別道』
川越市立博物館『第三回企画展  松平周防守と川越藩』平成3年
浜田市教育委員会 『ふるさとを築いたひとびと  浜田藩追懐の碑人物伝』 平成4年
初雁温知会『初雁温知会』昭和47年~

【後記】

  本稿作成にあたり、光西寺の近藤哲城 住職にお世話になりました。謝意を表します。
  写真は石山貞夫(本『文化財』編集)、文責は桑原政則にあります。

ああ
●松平康英(まつだいらやすひで、1830年~1904年)

 松平康英は、1861年に幕府の使節団の副使として欧州で交渉にあたった老中です。福島県の棚倉藩主から川越藩主に国替えになりました。福沢諭吉もこの使節団にいました。松平康英の墓は川越の光西寺にあります。のちに松平は、松井と改名したので、松井家廟(びょう)となっています。明治になり多くの松平氏は改名しました。
 光西寺は、島根県浜田藩、福島県棚倉藩、川越藩と藩主の国替えと共に移転してきている氏族寺です。もともと1566年に島根県浜田に建立され、浜田藩士の菩提寺として尊崇されてきました。
 1836年、浜田藩は日本海の竹島を根拠地として外国との貿易を行っていたことが間宮林蔵の調べで露見します。藩は本来ならば御家取り潰しになるところでしたが、徳川家の親藩ということで、福島県棚倉への左遷されるにとどまりました。
 光西寺も家臣ともども転住しました。1866年、棚倉藩主松平康英は、見込まれて川越城主に転封となります(1866年-1869年)。光西寺も家臣とともに川越に転地しました。川越市は棚倉町と友好都市協定を結んでいます。




川越・光西寺
松平周防守家廟(びょう)
松井家累代の遺骨170柱
市指定 史跡

竹島

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