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・1823年3月12日。江東区本所(ほんじょ)~1899年1月19日没。東京。75歳没
勝海舟の曽祖父は、新潟 柏崎の農民の生まれです。
視覚障害を持ち、 江戸に出て盲人の最高位の検校(けんぎょう)になりました。
視覚障害を持ち、 江戸に出て盲人の最高位の検校(けんぎょう)になりました。
勝海舟は、佐久間象山(しょうざん)に学びました。
【*】 佐久間象山
幕末の思想家。信濃(しなの)松代(まつしろ)藩士。妻は勝海舟の妹。
1860年、勝海舟は咸臨丸(かんりんまる)の船長としてサンフランシスコに上陸しました。
福沢諭吉なども同行しました。
老中からしつこく、何か日本と変わったことは何か、と尋ねられました。(概約)
「亜米利加では、政府でも民間でもおよそ
人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧(れいり)でございます。
この点ばかりは、まったくわが国と反対のように思いまする。」老中は、「この無礼者、控えおろう」と勝海舟を叱リました。
上に立つ人は怜悧であらねばならない、また責任も重い、という宿題を、
日本は背負ったままです。
海外新知識の持ち主の勝海舟のもとには
様々な人材が集まリました。
坂本龍馬、吉村寅太郎、桂小五郎(木戸孝允)などです。
勝海舟は、1868年戊辰(ぼしん)戦争の時、
討幕軍の西郷隆盛と交渉して
江戸城を無血開城しました。
勝海舟の臨終には妹(佐久間象山の妻)も付き添いました。
「コレデオシマイ」
と、人を食ったような言葉が最後でした。
勝海舟が他界した時の海軍大臣は
山本権兵衛(ごんべえ)でした。
山本権兵衛は若い時に、勝家に世話になりました。
海軍省に銅像を建てようと思いましたが、取りやめました。
勝海舟が言っていた言葉を思い出したからです。
「銅像なんか、時勢が変われば、
いつ大砲に鋳(い)られてしまうかわかったもんじゃない」
【語録 】
「生業(せいぎょう。家業)に貴賤はないけど、生き方に貴賤があるねえ」
大田区立 勝海舟 記念館