タイの地形は、タイ人の尊ぶ象の頭からなる |
タイ史は、スコータイ朝⇒ アユタヤ朝⇒ ラタナコーシン朝からなります。
- 1 スコータイ朝
- 2 アユタヤ朝
- 3 ラタナコーシン朝
タイ史は、南下史です。
タイ人は、中国の雲南あたりに住んでいました。
タイ族は、8世紀ごろから南下をはじめました。
1253年、雲南の大理(だいり。大理石の産地)が、
モンゴル帝国のフビライに滅ぼされると、
タイ人は、中国の雲南あたりに住んでいました。
タイ史は、雲南から |
タイ族は、8世紀ごろから南下をはじめました。
1253年、雲南の大理(だいり。大理石の産地)が、
モンゴル帝国のフビライに滅ぼされると、
大量にインドシナ半島に移動しました。
1 スコータイ朝(1257~15世紀)
1257年タイ人は、カンボジアのアンコール朝から独立し、
スコータイ朝を建てました。
スコータイ朝は上座部仏教を立国の精神にかかげました。
【※】上座部仏教は、自分だけが出家して、自分で修行をするという考えです。
スコータイ朝の3代ラーマカムヘン(位1275頃~1317頃)は、
カンボジアの文字をもとにタイ文字をつくりました。
スコータイ朝は、15世紀に南のアユタヤ朝に併合されました。
2 アユタヤ朝(1350頃~1767)
1350年ころアユタヤ朝が建国されました。
1432年アユタヤ朝は、カンボジアのアンコール朝を滅ぼし、領土を拡大しました。
アユタヤの日本町の山田長政は、数々の戦功を立てて最高の官職につきましたが、
王位継承争いに巻き込まれて死去しました。
アユタヤ朝は、1767年ビルマのコンバウン朝に滅ぼされます。
1782年 ラーマ1世は、バンコクにラタナコーシン朝(バンコク朝とも)を建てました。
【※】ラーマ
生き仏のこと。
ラーマ5世(チュラロンコーン大王)は、ヨーロッパの諸制度を積極的に導入しました。
そのため、英仏の重圧を回避でき、さらに両国の緩衝地帯となることができ、植民地を免れました。
【※】タイで一番のチュラロンコーン大学は、チュラロンコーン大王にちなんでつけられました。
1 スコータイ朝(1257~15世紀)
1257年タイ人は、カンボジアのアンコール朝から独立し、
スコータイ朝を建てました。
スコータイ朝は上座部仏教を立国の精神にかかげました。
【※】上座部仏教は、自分だけが出家して、自分で修行をするという考えです。
スコータイ朝の3代ラーマカムヘン(位1275頃~1317頃)は、
カンボジアの文字をもとにタイ文字をつくりました。
スコータイ朝は、15世紀に南のアユタヤ朝に併合されました。
2 アユタヤ朝(1350頃~1767)
1350年ころアユタヤ朝が建国されました。
1432年アユタヤ朝は、カンボジアのアンコール朝を滅ぼし、領土を拡大しました。
アユタヤの日本町の山田長政は、数々の戦功を立てて最高の官職につきましたが、
王位継承争いに巻き込まれて死去しました。
アユタヤ朝は、1767年ビルマのコンバウン朝に滅ぼされます。
3 ラタナコーシン朝(1782~)
1782年 ラーマ1世は、バンコクにラタナコーシン朝(バンコク朝とも)を建てました。
【※】ラーマ
生き仏のこと。
ラーマ5世(チュラロンコーン大王)は、ヨーロッパの諸制度を積極的に導入しました。
そのため、英仏の重圧を回避でき、さらに両国の緩衝地帯となることができ、植民地を免れました。
【※】タイで一番のチュラロンコーン大学は、チュラロンコーン大王にちなんでつけられました。
東南アジアで植民地にならなかったのはタイのみです。
第一次世界大戦後の1932年にタイ立憲革命が起こり、
陸軍将校のピブンが首相に就任しました。
1941年に太平洋戦争が起こると、日本と同盟条約を締結し、結果的に日本軍による占領を免れました
戦後はSEATO(シアトー、東南アジア条約機構)、ASEAN(アセアン、東南アジア諸国連合)の加盟国となり、戦勝国になりました。
政治的には、軍事クーデターが頻発し、軍政と民政が繰り返されています。
陸軍将校のピブンが首相に就任しました。
1941年に太平洋戦争が起こると、日本と同盟条約を締結し、結果的に日本軍による占領を免れました
戦後はSEATO(シアトー、東南アジア条約機構)、ASEAN(アセアン、東南アジア諸国連合)の加盟国となり、戦勝国になりました。
政治的には、軍事クーデターが頻発し、軍政と民政が繰り返されています。
0 件のコメント:
コメントを投稿