「川越まつり」は、松平信綱の「島原・天草の一揆」の反省から。文治政治の始まり。

「川越まつり」は、松平信綱の「島原・天草の一揆」の反省から
 川越まつりは川越氷川神社前から出発 (※)
1637年(寛永14年)の「島原・天草の一揆」は、長崎県の島原と熊本県の天草の民衆が、厳しい年貢の取り立てとキリシタン弾圧(?)とに耐えかねて起こした一揆です。

38000の天草人が犠牲になりました。
幕府は12万の大軍を送ってようやく鎮めました。
幕府側も28000人の死傷者を出しました。

幕府軍を率いたのが松平信綱です。

松平信綱は島原の乱の功績で
忍(おし)城主3万石から
川越城主6万石へ加増されました。

3代家光の弟・保科正之は、島原の乱を総括し、
幕府の方針を「武断政治から文治政治」へと大きく切り替えます
いままでの斬り捨て御免方式の廃止です。

【※】 保科正之
家光を支えた副将軍、家光の弟で、4代家綱の後見人です。
会津松平家初代です。

未開から文明への転換です。

江戸260年の文治政治、仁による政治はこの時に始まります

老中でもあった川越城主・松平信綱は、
川越においても文治政治の見本を示します。

「島原・天草一揆」の未然防止の意味も込めて、「川越まつり」を始めたといわれています。


(※)http://www.ne.jp/asahi/nishikawa/web/2009kawagoe_maturi.html