保科正之。会津藩祖で、3代将軍・家光の弟。Hoshina Masayuki。2月4日没
・1611年6月17日。江戸~
1673年2月4日没。71歳
保科正之 一色の会津若松駅前 2011年9月 |
保科正之展 鶴ヶ城 |
ならぬことは ならぬものです。 保科正之のことば 会津若松駅前 |
小彼岸桜の由来 |
「この桜は、会津藩祖・保科正之公ゆかりの地、
高遠町(たかとおまち)より贈られたものです。
正之公は、2代将軍徳川秀忠の子で、
高遠藩(たかとおはん)保科氏の養子に入り、
城主を経て1643年会津藩主となり、名君とうたわれました。」(要旨)
松平家廟所(びょうしょ)への入り口。会津若松市 |
歴代松平家愛馬之墓 |
保科正之は、2代将軍・徳川秀忠の傍流の子です。
徳川家光の弟にあたります。
武田信玄の娘・見性院にそだてられます。
<* 見性院の墓は、さいたま市緑区の清泰寺にあります。>
保科正之は高遠藩・保科家の養子となりました。
のちに会津23万石の藩祖となりました。
1657年の明暦の大火では、蔵からの「米の持ち出し自由」とし、危機を乗り切りました。
焼けた江戸城天守閣の再建には、無用の長物として反対しました。
保科正之は、影の「副将軍」として家光のために、
また家光の子・4代将軍・家綱のために終生つくします。
武断政治を文治主義に転換するのに功がありました。
「家訓(かきん)15条」を残しました。
死後は文書類は一切処分するようにと言い残しました。
あくまでも、影に徹するためです。
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保科正之の家訓15条
会津藩の方針。第1条は「どんなことがあっても、将軍家に忠誠を」です。
【名言】
「ならぬことは、ならぬ」
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保科 正之(藩祖) → 松平 容保(かたもり、最後の藩主)
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映画化された「天地名刹」(めいさつ、冲方丁、うぶかた とう 作) は、
800年ぶりに改暦をなしとげた渋川春海の物語です。
渋川春海(しぶかわ はるみ=安井算哲)を支援したのが、保科正之です。
天地明察