2011/05/29

八重の桜>蒲生氏郷:戦(いくさ)の天才



蒲生氏郷の婚姻関係
蒲生氏郷(がもう うじさと、1556-1595、39歳)

蒲生氏郷は、13歳の時、
人質として織田信長のもとに送られました。

14歳で戦で大きな手柄を立て、以後歴戦で活躍します。

信長は氏郷の非凡な才能を愛し、娘の冬姫とめあわせ、
生まれ故郷の近江の日野に返します。

日野では、氏郷は信長の城下町づくりの手法を取り入れ、
行政、経済を改革し、繁栄の時代を築きました。
日野町の位置 【地図】

氏郷の息子・秀行は、家康の娘・振姫を妻にしました。


信長が本能寺で撃たれた後は、蒲生氏郷は秀吉の傘下に入ります。

秀吉のもとで合戦に活躍し、 伊勢・松坂12万石をあたえられます。

九州征伐、小田原征伐の功により、
36歳で会津の領主となりました。

蒲生氏郷は、奥州の伊達政宗を監視し、関東の徳川家康を牽制する役をになうことになりました。

蒲生氏郷は、会津若松の基礎をつくりました。
外濠を築き、郭内は家臣の、郭外は庶民の住居にしました。
要所に社寺を配置し、現在の会津若松の骨格をつくりました。

商工業の発展のために、いくつかの市(いち)を設けました。
上方から漆器、金工、酒造の技術を移入しました。
これらは現在にまで続いています。

故郷・日野の「若松の森」にちなんで、伊勢で「松坂」としたように、
会津若松の旧称・黒川を「若松」 と改めました。

幼名は、 鶴千代でした。
会津若松の鶴ヶ城は、
  鶴千代
にちなみます。 
<* 鶴ヶ城は、正式名は若松城です。当時は、地名を公式名にしました。>

蒲生氏郷は、文化人でもあり、茶道では千利休七哲の1人でした。
利休の子を保護し、千家茶道の再興につくしました。
茶室麟閣(りんかく)は、鶴ヶ城に移築されています。

キリスト者で「レオ」という洗礼名をもっていました。

蒲生氏郷のあと、13歳の息子が継ぎますが、病弱のため宇都宮に減封されます。
レオ氏郷 南蛮館   :2010/10
わずか39歳でこの世を去りました。
蒲生氏郷の興徳寺、豊臣秀吉もここに宿泊
<*  豊臣秀吉は、奥州仕置きの際、ここを庁舎にしました。秀吉最北端の地です。>
蒲生氏郷の五輪塔、興徳寺
<*  五輪塔は、下から「地・水・火・風・空」をあらわします。
古代インドでは宇宙の構成要素でした。
五輪塔 >

    限りあれば  吹かねど花は散るものを  心みじかき春の山かぜ

    ≪(花の命は)限りがあるのだから、 吹かなくても散るのに、 気の短い春の山風だことよ。≫

【注記】1595年、39歳で死去する際の辞世の歌です。
歌碑は墓前にあります。

◇                    ◆                    ◇

蒲生氏郷 年譜

1590年
会津を豊臣秀吉よりあたえられました。
前の領主・伊達政宗は今の宮城県へと移りました。

1592年
朝鮮の役へ加わりました。

1593年
鶴ヶ城がほぼ完成します。

1595年
氏郷が死去します。
享年39歳です。氏郷のあとは、子の秀行が継ぎました。

1598年
氏郷の子・秀行は宇都宮へ18万石で転封となります。

◇                    ◆                    ◇


蒲生氏郷公像  【画像】

松坂城 【画像】 蒲生氏郷が築城



*     *     *

【まとめ】
・近江・日野→ 伊勢・松坂→ 会津。
・洗礼名レオ。会津若松のまちづくり。
・妻は織田信長の娘。息子の妻は徳川家康のむすめ。

【追】伊勢商人と近江商人は同根
蒲生氏郷は、伊勢に近江日野の商人を招いて楽市楽座を奨励しました。
これが伊勢商人の始まりです。
伊勢関係のデパート:松坂屋、伊勢丹、三越