3代 徳川家光 |
・1604年8月12日 ~ 1651年6月8日。47歳
【川越】喜多院。喜多院の家光誕生の間。仙波東照宮。川越氷川神社の八坂神社 (元は江戸城の東照宮)。家光の山車
【埼玉県外】江戸城。日光の大猷院 (たいゆういん、家光廟)
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徳川家光は幕藩体制を確立した徳川第3代将軍です。
参勤交代、キリシタンの禁止、鎖国の実施など幕藩体制を確立しました。
家康の墓は日光山にあります。
家光の墓も日光山です。
その他の将軍の墓は、上野の寛永寺あるいは芝の増上寺です。
幼時、母・お江(ごう)も父 秀忠も、
家光の弟を偏愛しましたが、
家康は世継ぎを家光に定めました。
乳母(めのと)・春日局(かすがのつぼね)が、
駿府の家康のもとへ「抜け参り」した結果です。
この頃、母親はお姫様で育児の仕方を知らないので、乳母(めのと)が母そのものでした。
家光が13歳の時、家康は75歳で没しました。
家光は、家康を神のようにあがめていました。
その結晶が、日光東照宮の大造営です。
経費すべては、幕府の支出でした。
ピラミッド、万里の長城と同じく、
日光東照宮は、いまでは貴重な観光遺産となり、後世に恩恵をもたらしています。
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家光のもっていたお守りが現存しています。
「東照権現、将軍 心も体も一ッ也」(家康公と将軍の私は、心も体も一ッ也)。
「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」
家光の気持ちを形あるものにしたのが
日光東照宮の大造営です。
家光は、1634年から1636年にかけてすべて幕府の出費で東照宮の大改築を行い、
自身も10回にわたって日光に社参しています。
将軍達の日光社参は全19回、
うち家光が10回を占めます。
そのころ日光社参には1週間以上かかりました。
家光は死後も家康と生活を共にすることを願い、自分の墓も東照宮につくるように言い残しました。
大猷院(たいゆういん)です。
大猷院(たいゆういん) 家光の墓 |
日光に竜虎の争う絵はありません。
家康は虎年、
家光は 竜年です。
1638年に、川越大火によって川越 喜多院のほとんどが消失しました。
家光は、天海僧正をおもんばかって、すぐに喜多院の再建に着手し、
江戸城から客殿や書院を移築しました。
喜多院にある「家光誕生の間」「春日局化粧の間」がそれです。
これらは、江戸城の唯一の遺構です。
家光は、天海僧正を家康と同列視していました
祖父のような親しみを感じていました。
家光は川越を9回も訪ねています。
日光の大猷院(たいゆういん、家光廟(びょう))は、
慈眼堂(天海の墓所)の上にあります。
家光は、天海が病気になったとき、
1ヶ月余の間に4回も上野の寛永寺に見舞っています。
家光が、家康と天海が眠る日光に自分も眠りたいと考えたのは当然のことでした。
家光には6人の子供がいます。
千代姫、家綱(4代将軍)、亀松、綱重、綱吉(5代将軍)、鶴松です。
孫に家宣(6代将軍)、その子に家継(7代将軍)がいます。
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★ 高血圧だった家光
家光は、父母が、自分よりも弟の忠長をかわいがったこともあり、ものいわぬ暗い性格でした。
両親の愛を春日局に求めました。
30歳頃からは、高血圧のせいもあって、
うつ病にかかり、ひきこもっていました。
死因は、高血圧による脳出血のようです。
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★ 徳川家光年表
1604年、秀忠・お江の次男として誕生。春日局、乳母となる。
1606年、弟・忠長誕生。
1616年、徳川家康死去。
1623年、家光、征夷大将軍に就任。
1625年、家光、鷹司信房の娘・孝子と結婚。
1626年、母・お江死去。
1629年、天然痘に感染。
1632年、父・秀忠死去。
1633年、弟・忠長に自害を命ず。
1637年、島原の乱がおこる。
1641年、家綱誕生。のちの4代将軍。
1643年、春日局死去。
1646年、綱吉誕生。のちの5代将軍。
1651年、家光死去。
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【画像出典】金山寺蔵。岡山県立博物館寄託