徳川家光は、子どものころ、2代将軍・ 秀忠夫妻からきらわれ、弟が将軍のあとつぎに決まりそうになりました。
乳母(うば)の春日局は、大御所 徳川家康に家康にうったえて、家光をあとつぎにしてもらいました。
※ 世にいう「春日局の抜け参り」です。春日局は、伊勢参りにでかけるといつわって、駿府に出向き、2代 秀忠夫妻の家光弟への偏愛ぶりを訴えました。家康は、衆目の前では家光を正当な跡継ぎとして遇し、秀忠夫妻の思惑を断ち切りました。
春日局は家光をかわいがり、家光も、母親のようにあまえました。
老中となる松平信綱、堀田正盛、稲葉正勝は、春日局が育てた小姓(こしょう)でした。
春日局は大奥3000人の制度を整えました。
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春日局の父は、斎藤利三(としみつ)です。
明智光秀の主席家老でした。
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川越の仙波東照宮の石鳥居は、1638年(寛永15年)年のものです。銘が残っています。
国の重要文化財となっています。
堀田正盛が奉納したものです。
【※】堀田正盛の義理の母は春日局です。
堀田正盛は、3代家光の寵童(ちょうどう)で家光が逝去(せいきょ)した時、殉死(じゅんし)しました。
これ以降徳川幕府は、主君のあとを追っての自殺、殉死を禁止しました。
川越の仙波東照宮の灯籠の第1寄進者は、松平信綱です。
春日局は、3代 家光の乳母で大奥を整える 桑原政則
「春日局 徳川家康を動かす」 【46+】NHK その時歴史が動いた
【逸話】
春日局は、若い家光が疱瘡(ほうそう)にかかった時に、神仏へ回復祈願をしました。
その際に「薬断ち」を誓いました。
薬だちは一生続きました。
死の間際に、家光が「どうか、薬をのんで、命を延ばしてください」と手紙を書きました。
飲むふりをして、ふところにしまいこんでしまいました。
誓いを破れば、神や仏は上様を守ってくれないかもしれない、と固く考えていたからでしょう。
【名言】
「西に入る 月を誘い 法(のり)をへて 今日ぞ火宅(かたく)を 逃れけるかな」
西へ没していく美しい月を心にとどめ、仏の教えに従って
きょうこそ煩悩の多いこの世からのがれることが出来ました
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