本應寺


川越観光案内  第11回  本應寺


NPO武蔵観研 会長  桑  原  政  則


[リード]

蔵造りの町並みを通り、菓子屋横丁をさらに



本應寺の由来

  1547年、松山城(吉見町)は北条氏に奪われ、城主・上田一族は滅亡しました。長沢久右衛門は逃げる際、主君より大事なものを託されました。長沢一族は川越の鴨田、石田、老袋に逃れ、農民として土着しました。25年後に、この秘宝をたずさえ、本應寺を石原の地に創建しました。山号の長久山は、長沢久右衛門から取ったものです。

仁王門

金剛力士?の像を左右に安置してあります。@邪気の入るのを防ぐためです。仁王門があるのは、川越では3キロ先の常楽寺とここ本應寺だけです。

一切経蔵および輪蔵(りんぞう)
仁王門の脇には、一切経蔵(いっさいきょうぞう)があります。一切経蔵内には、

輪蔵と呼ばれる八角形の回転する経蔵に、お釈迦様が説いた経典の全てが保管されています。



かつては、河越城と松山城(比企郡吉見町)は、後北条の北関東前線基地であった。


*本堂* 本応寺第15世は本山の法主(ほっす)に
本応寺の第15世は、日蓮宗総本山・身延山久遠寺の法主(ほっす)になりました。

久遠塔(くおんとう)
永代供養塔のことです。誰もが拝めるように本堂前の目立つところに端座しています。2月15日は、お釈迦様がなくなった供養の日です。翌日の2月16日は日蓮上人がなくなった日にあたります。



高山繁文は芭蕉の門人
高山伝右衛門繁文は、川越城主・秋元喬朝(たかとも)の家臣で、殖産興業で功績を残しました。松尾芭蕉の門人でもありました。

川越城の太鼓:松井松平家


日蓮宗

15世は


”  高沢橋  4寺と組んで  城守り  ”
見立寺(けんりゅうじ)、大蓮寺、本応寺、観音寺の4寺は、
いくさに備えて、
高沢橋を守る砦(とりで)の役を果たしていました。


高沢橋から川越城までは、わずか450メートル。


菓子屋横丁からわずか80メートル。
災害時の避難には、高沢橋方面へ誘導を。【※】観光客はまず知りません。


眼を見張るようなトイレの設置を。

かつては4寺は砦でも。川越城・中の門・堀跡との関連。 川越史。
緊急避難場所  
めがね橋   すべり渕    


寺は砦(とりで)にも
本応寺、観音寺、大蓮寺、見立(けんりゅうじ)は、高沢橋を守り、500m先の川越城 敷地←を  
川越城は、北に



ささら獅子舞
小浜市と姉妹都市 交流がさかんになることを


大道寺政繁
常楽寺に墓。広済寺を建立。蓮馨寺(れんけいじ)を現在地に。見立寺(けんりゅうじ)。大蓮寺







本應寺の概要
山号   長久山(ちょうきゅうざん)。 @@「長」「久」は、長沢久右衛門より。
寺号   本應寺(ほんのうじ)
宗派   日蓮宗 【※】日蓮宗は川越市で5社。
創建   1615年(元和元年、がんながんねん)。
本尊  久遠の釈迦  二仏びょうざ
住所  川越市石原1-4-9  バス:川越駅東口  6番乗り場より石原町。
別院  広谷山・本應寺別院 〒350-0804 川越市下広谷331-13
拝観  自由。無料



【後記】
  本應寺は、励んでいます。
15世は大本山・身延山久遠寺の法主(ほっす)に栄達しました。
星 光喩(ほし こうゆう)現住職は、寺史編纂を企画しました。川越市シルバー人材センターが中心となり、檀家、郷土史家、宗門専門家などの協力で135ページの寺史を完成させました。

また、住職は、ケイタイ説法を8年間続けています。地湧(じゆう)塾を開き、「モーコリタ」(忘己利他)といった冊子を発行しています。 チベットを訪問し、講演会を開いたりしています。

 本稿作成にあたり、本應寺の星・光喩(ほし・こうゆう)住職にお世話になりました。文責は桑原政則、写真は石山貞夫にあります。


・・・・・・・・・・・

住民と力合わせ寺史編纂
埼玉県川越市・日蓮宗本應寺 星光喩住職

2014年7月30日付 中外日報(キラリ ― 頑張る寺社・宗教者)

日蓮聖人の魂を伝えたいと話す星光喩住職


「小江戸」と呼ばれ、多くの観光客でにぎわう埼玉・川越。
蔵造りの町並みや菓子屋横丁などの観光スポットの近くに日蓮宗本應寺はある。

同寺は1615(元和元)年の開創で、来年400年を迎える。
川越藩の国家老で、松尾芭蕉の門人でもある高山繁文の墓所があり、俳句好きな人たちがよく訪れ、句会の会場にもなる。

15世住職の日奏が身延山久遠寺法主に就任するなど由緒ある寺院だが、1780(安永9)年に火災で多くの資料を焼失した。
かねて寺歴をまとめたいとの希望を持っていた星光喩住職は、立教開宗750年記念として寺史編纂を企画。

川越市シルバー人材センターに編集を依頼した。
高校などで歴史を教えていた教諭や郷土史家などが同センターに登録しており、地元を愛する人たちと一緒に歴史をたどり直そうとの思いからだった。

編集に参加した人たちは、国会図書館や立正大図書館にも通い、また宗門史の専門家に教えを請い、檀家の取材なども精力的に行った。
2003年に『長久山本應寺  今むかし』がまとまり、本應寺が創建された当時の川越の様子から、一切経などの寺宝についても分かりやすく解説されている。

編集を通じて地域の歴史があらためて見直され、この冊子の出来栄えを見て、市内の他の寺院から同センターに寺史編纂の注文が続いたという。

星住職は同寺を会場にチベットの現状を語ってもらう講演会を開いたり、また有志と「地涌塾」を立ち上げ、心も言葉も振る舞いも宗祖に学ぼうと檀信徒に呼び掛けている。

その原点は宗門が主催する布教研修所での御遺文講義だった。
講師は日蓮教学の第一人者、茂田井教亨・立正大教授で、5人の入所者と1年間寝起きを共にした。
「先生は文章に込められた聖人の魂を語られた。
御遺文とはこのように読むものかと衝撃だった」と当時を振り返る。

日蓮聖人は『立正安国論』を執筆し、この世を仏国土に、と為政者に進言した。
その門下として、地域の人たちの心に仏教を届け、より良い社会を目指そうとする試みを続けている。

(有吉英治)


0 件のコメント: