平林寺(へいりんじ)のページ。松平信綱の墓地も
松平信綱。幕府の老中、川越藩一の名君。5月4日没。Matsudaira Nobutsuna <川越の先人
松平信綱:文官でも合戦に勝てる <童門 冬二
平林寺(へいりんじ)のページ。松平信綱の墓地
松平信綱。3代家光を補佐し、幕藩体制を固める。川越藩の名君。Matsudaira Nobutsuna。5月4日没
島原・天草一揆とは史上最大の一揆。松平信綱
松平信綱の在職年数は59年間、家光に47年間
「江戸図屏風」には川越城でくつろぐ3代家光も
「川越まつり」は、松平信綱の「島原・天草の一揆」の反省から。文治政治の始まり。
松平斉典(なりつね)は、松平信綱とならぶ川越藩の名君。「川越百万灯祭り」で有名
「お宝」25年ぶり公開 川越・三芳野神社。東京新聞2018年4月18日
川越城主一覧 >川越
川越まつりの山車リスト
大名コラム
川越城:江戸の背後を守った城。 小柴 皐月
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59年間仕える
天海、家康、家光 X酒
島原
由比正雪
明暦の大火 回向院 天守閣燃える 江戸の6割が消失
川越統治
1583年 川越大火
川越藩 10万石
野火止用水 =伊豆殿堀
新河岸川を整備 今の高速道路
「家臣は右手、農民は左手」
31歳で大名に
全書類を焼却
江戸前期の老中。将軍家光に仕え、知才溢れる忠勤により小姓から老中に出世する。島原の乱を鎮圧し、家光の死や由井正雪の乱・明暦の大火などの危機を乗り切り、幼君家綱を助けて幕府の確立に尽力した。川越藩主としても城下町を復興、農政にも意を用い、「小江戸」川越の基盤を築いた。その才知から多くの逸話が残る「智恵伊豆」の実像に迫る。
幕府老中を務める
知恵伊豆と呼ばれたほどの頭の切れた人物
舟運を開始
島原・天草一揆
川越まつり
川越一の名君
1656:川越御馬屋にて馬の去勢を実施。日本ではじめて。信綱が唐人から教わってのこと <本の中の川越19
本の中の川越22 兵糧攻めの作戦
本の中の川越34 知恵伊豆のエピソード
本の中の川越39
本の中の川越42 ◎ /45 68 80
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松平の本家:茨城古河→ 三河の吉田藩 = 大河内
次男が高崎藩→ 平林寺をおさめる
信綱:くよくよしない 無頓着 子供にはめぐまれなかった
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「島原の乱」 踊る授業シリーズ 【踊ってみたんすけれども】 エグスプ ...
諸説あり! 歴史ミステリー 島原の乱 天草四郎vs松平信綱 - YouTube
歴史ミステリー 島原の乱 天草四郎vs松平信綱 - YouTube 58
中村彰彦 知恵伊豆に聞け
江戸幕府の二度にわたる危機(天草島原の乱と由井正雪の慶安事件)を鎮圧。
明暦の大火を乗り切り、玉川上水、野火止用水の開削を成功させた松平伊豆守信綱(知恵伊豆)が、67歳で没するまで、59年間、秀忠・家光・家綱三代の将軍に仕えた当時の国状を知る。政治手腕、知恵の数々。又、家光の異母弟保科正之の存在を想像する楽しさ。大事に、ゆっくりと、少しずつ読んでゆく面白さがある。パソコンから、信綱の年譜も合わせて読んでゆくと、一層楽しい時間になりました。叔父の養子になりますが、その叔父(正綱)が又、立派な人。日光杉並木を造った人なのです。この叔父さんは、家康に能力を評価されたのです。 マー読んで楽しくて勉強にもなりました。
松平伊豆守信綱は若年のころから家光に仕え、誠実さで主人に認められ、機知で主人の出す無理難題の解決や、仲間の間の小さなイザコザ、はては最後の戦となる島原の乱までをうまくさばき、誰からも頼りにされた老中だった。
かせになっている糸の長さを短時間で測る、主人が能を堪能するために一晩で庭に白壁をめぐらす。
といった頓知のような出来事のほか
後は200年以上、戦がなくなる最後の戦「島原の乱」の総大将も勤めてみせる様子を盛り込んだ、松平信綱の生涯を描いた作品。
徳川家光のころのまだ戦の名残が残る江戸城の様子や、まだ若い幕府の黎明期の生き生きとした様子が楽しい本でした。
松平信綱は民事の裁判まで手にかけていたというのがまた面白かったです。
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松平信綱 【cf.】スライドへ
信綱は現在でも川越市民に最も記憶されている藩主である
徳川家光が誕生すると、家光付の小姓に
才知に富み、官職の伊豆守から「知恵伊豆」(=知恵出づ)と称された。
小姓から老中へ
主君は、3代徳川家光→4代徳川家綱
家光は「我ほど果報の者はあるまじ。右の手は讃岐(酒井忠勝)、左の手は伊豆」」と評す
酒井忠勝は「信綱とは決して知恵比べをしてはならない。あれは人間と申すものではない」と評している
幕藩体制は信綱の時代に完全に固められた
藩は、相模国内→武蔵忍藩主→武蔵川越藩主
1637の島原の乱では、総大将に
信綱は一揆の総大将である天草四郎をさらし首に
一揆鎮圧の勲功で、寛永16年(1639年)には3万石加増の6万石で川越藩に移封
信綱は川越の整備、新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水や野火止用水の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた
島原の乱後、信綱はキリシタン取締りの強化や武家諸法度の改正を。オランダ人を長崎の出島に隔離して鎖国制を完成させた。
墓所は新座市野火止の平林寺
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Yahoo!
松平伊豆守信綱は『知恵伊豆』と呼ばれ、将軍家光と家綱の二代にわたり老中として活躍し、島原の乱を鎮定して、幕府の確立・安定に大きな役割を果たした事で有名ですが、一方信綱の人望は今一つのところがあり、『才あれど徳なし』とも言われておりますが、それは、堀田正盛や阿部重次が将軍家光に殉死したのに、彼が生き延びたので一人悪口が集まったと思われます。
また、信綱の伝記や評伝類は意外に少なく、明暦の大火で江戸屋敷が焼けたせいか、関係史料も多くありません。
『明良洪範』『武野燭談』などに記事があるのみです。
『知恵伊豆』の面目を示す逸話を二、三紹介します。
秀忠の寝所の屋根の雀の雛を、信綱が幼い家光の命で捕らえようとして庭に落ち、秀忠が詰問してそそのかす者を問い袋の中に封じ込めたが言わず、翌日秀忠は家光の命と察し、後来を戒めて放免、幼くして主命を重んじる忠勇は、後に必ず有為の士になろうと言ったと云う話。
二の丸廊下橋のそりの勾配を扇子を開いて家光の気に入ったところで決めた話。
これは出世の始まりで家紋も三本扇としました。
明暦大火の翌日、水戸頼房が国元より人数を召し寄せようとの内談に、江戸の人数減少の仕置が然るべきと江戸詰め大名に暇を遣わした話など、信綱の知恵を語る話はとても多いです。
また、領内の名主百姓が信綱邸に伺候したとき、信綱は、隠れ簑とか隠れ笠、打出の小槌などと言うものがあるが、どんなものか知っているかと聞き、名主たちは、お伽話では聞いたことがあるが、見たことはないと答えると、信綱は声をひそめて『これは秘伝であるが、とくに聞かせよう。たとえば雨が降っていて諸人が田畑に出ないで遊んでいるとき、近所の者に隠れて、簑笠を着けて田畑に出ること。打出の小槌とは、鍬や鋤のようなもので、このように諸人に見えないところで働くなら、宝は思いのままである』と云ったそうです。
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3代家光、4代家綱の初期を補佐して幕府の支配体制を整えた功績は大きいと思います。
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2つ程承知しています。
松平信綱に対して貴公の知恵はどこから湧いてくるのか質問した同僚がいました。
それに対して信綱の回答は『神君(家康)台徳院(秀忠)様の話しを親から聞かされ、一生懸命に聞いた。何時の時代でも人のやる事は変わらない。子供の頃に聞かされた話しが役だっている』という内容であったと記憶してます。
もう一つは橋の勾配を測る時に扇子を使って勾配を調べ、役人のこの勾配で橋を作れ(改修かも)と指示を出した逸話があります。
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島原の乱の鎮圧の際には、戦国時代の経験者の意見を訊いたそうです。立花宗茂、水野勝成、鍋島勝茂などが鎮圧に参加しています。
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家光の側近。島原の乱の鎮圧に尽力。頭が良く、知恵伊豆と呼ばれていた。
家康の家来だった叔父は、側室のひとりお梶を譲られて結婚したものの破局。
妻は側室に逆戻り。
叔父は、以後女性不信で結婚せず、おいを養子にいれ、跡取りにした。これが松平信綱である。
幼少から聡明でしられ、八歳で秀忠につき、翌年家光が誕生すると、直ちに家来としてつけられて、養父以上に出世、老中に登り、政治家として活躍した。
ちなみに、義理の叔母だったお梶の方は水戸藩初代頼房の養母、光圀の祖母に当たります。
お勝、ともいいます。ゲームではかなり強いご婦人ですね。
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大河内松平氏 徳川家光の側近 島原の乱(天草一揆)を鎮圧する。伊豆守という官位をもち、頭が良かったから知恵伊豆とよばれたらしい。
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島原の乱の時に松平信綱はオランダ船に頼んで原城跡に立てこもる農民たちを砲撃することを命じたとありました。
オランダ船がそのようなことをする意味がよくわかりません。オランダはキリシタンを擁護するたちばのよ
うに思えるし、そこまで幕府や藩のいうことを聞く利益がないような気がするのです。オランダ船としては日本との貿易の利益が
それだけあったということでしょうか?
オランダは、キリスト教の布教には一切関わらない、という誓約をしたので、幕府から(欧州で唯一)貿易を許された国です。つまり、オランダは「我々はキリスト教とは関係ないです」という約束をすることにより、日本・ヨーロッパ間の貿易権益を独占しているのです。これは、たいへんな利益です。何がなんでも手放したくないに決まっています。
だから、キリシタンを旗印にした一揆軍に対して、幕府の援護をして攻撃することは、オランダにとって「キリスト教非布教国」としての立場を明確にできるし、幕府に恩を売れるし、一石二鳥の「お安い御用」だったのではないでしょうか。
島原の一揆軍の本質は本当は「キリシタン」という信仰上の理由とはいえない、という説のほうが今日では有力ですが、いずれにせよ、日本のキリシタンは、イエズス会のスペイン人宣教師の教えを奉じる者ですから、カトリックです。本場ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントは、血で血を洗う「宗教戦争」を戦っていました。旧教徒と新教徒は、、欧州の人口が激減するほど殺しあっていたんです。その戦争の結果として、カトリックのスペインの支配から、ようやく独立したプロテスタントの国が、ほかならぬオランダです(オランダは、ほんの少し前まで、旧教国ハプスブルク家スペインの「飛び地領」(ひらたくいえば植民地)であり、宗教が違うせいで、なにかと差別、弾圧されていたのです、世界史の教科書を参照してください)。
だから、オランダが、憎っくきスペイン人の弟子である、カトリックを奉じる一揆軍を攻撃するのは、本望、とまではいわなくても、「同じキリスト教徒を攻撃するのはどうかなあ」的な逡巡をする必要は、一切、ないのです。
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矢沢勇 『世界が認めた小江戸の大祭 川越まつり』 プリント 武蔵観研例会 2024/02/20
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