「論湿寒貧(ろんしつかんぴん)」 <* |
比叡山中興の祖・天海大僧正の説明版 (※1)。2009年 |
「慈眼大師 天海大僧正 住坊跡」の碑。 2009年 |
「論湿寒貧(ろんしつかんぴん)」とは、比叡山のきびしい修行風景を言い表したことばです。
・法然(浄土宗)、
・栄西(臨済宗)、
・親鸞(浄土真宗)、
・道元(曹洞宗)、
・日蓮(日蓮宗)
といった各宗派の開祖たちも比叡山で修行しました。
・法然(浄土宗)、
・栄西(臨済宗)、
・親鸞(浄土真宗)、
・道元(曹洞宗)、
・日蓮(日蓮宗)
といった各宗派の開祖たちも比叡山で修行しました。
「論」は、仏の教えを論じ、研究することです。
「湿」は、夏はウッソウとした林と琵琶湖からの湿気で蒸し暑いことをいいます。
「寒」は、海抜700メートルの比叡山名物の寒さです。
お堂は粗末ですきま風が入り放題です。
お堂は粗末ですきま風が入り放題です。
「貧」は、清貧が当たり前の生活です。
延暦寺は檀家をもっていませんでした。
命を絶たれるものも、下山するものも多くいました。
◇ ◇ ◇
1607年、72歳のとき、天海は家康の命で、比叡山の探題(たんだい、最高権威者)となり、内輪もめの激しかった延暦寺をまとめにかかりました。
比叡山東塔の南光坊に独居します。
冬は寒風が吹き放題です。
3年間、論湿寒貧(ろんしつかんぴん)の生活を送りました。
この頃は平均寿命が40歳程度でした。
◇ ◇ ◇
(※1)比叡山の天海大僧正の説明版
「徳川家康公の信任厚く、黒衣の宰相と言われる。
比叡山をふりだしに、全国を修行して歩き、
再び比叡山を志したとき、
織田信長の比叡山焼き討ちにはばまれた。
後、武田信玄の帰依(きえ=信仰)も受けた。
家康公に山王一実神道(さんのう いちじつしんとう)を説いた。
秀忠、家光と三代の将軍について幕政に参画、
政権確立に貢献した。
日光山を与えられ、この造営に尽くし、
また上野の寛永寺を開山した。」