・三浦按針= ウィリアム・アダムス
三浦按針、人生の羅針盤に
家康に認められた英国人、菩提寺守りつつ再認識 逸見道郎
「将軍の恩に報いるため、また江戸を守護するために江戸を一望できる高台に葬るべし」との遺言に基づき立てられた按針(あんじん)塚が、東京湾を見下ろす横須賀市の県立塚山公園にある。按針とは、日本に漂着し、時の権力者徳川家康の信頼を得て外交顧問となった英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針)のことである。
按針が家康から三浦半島の天領に250石の領地をもらったのが横須賀市逸見(へみ)で、私は按針の菩提寺、浄土寺の住職を務めている。以前はテレビ局に勤務していたが、父が早世し27年前に寺を継いだ。
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旗本身分の侍に
学生のころから皆川三郎、岡田章雄さんら按針研究家がたびたび寺を訪ねてみえて、按針についていろいろ学ばせてもらった。按針は「水先案内人」を意味する。人物像を知るにつれ、彼の数奇で揺るぎない人生は、グローバル化時代に進路を見失っている私たち日本人にとって、羅針盤となるのでは、と確信するようになった。
1564年に英国で生まれた按針は、98年にロッテルダムから東洋を目指すオランダ船リーフデ号に航海士として参加。途中、飢えや病気に悩まされ、1600年、大分県臼杵市の浜に漂着した。病気の船長に代わり船員の代表として取り調べに大坂に連行された按針は、豊臣政権下の五大老筆頭だった徳川家康に面会した。
すでに日本に来ていたスペイン、ポルトガルの商人やカトリックの宣教師はプロテスタントのアダムスらを殺すよう求めたが、家康はアダムスと会い、信念のある態度を見て人物の力量を見抜いたようだ。船員たち全員を釈放した。難破船にあった500丁の火縄銃や火薬に興味を持ったことも釈放の一因だったようだが、家康がアダムスに対し互いに苦労を重ねてきた人間同士として信頼を感じたのだろう。
優れた航海術と造船技術をもっていたアダムスは、伊東で西洋式帆船を建造し大いに家康を喜ばせ、日本名を三浦按針として旗本身分の侍となった。外交顧問として重用された按針だが、スペイン人やポルトガル人に復讐(ふくしゅう)しようとはしなかった。日本人のゆきと結婚し、逸見の地で1男1女をもうけている。
浄土寺には、按針が携帯していた念持仏観音像などが残っている。按針の死から220年もたった後、彼の江戸屋敷があった日本橋按針町から法要のために寄進された打敷が伝えられており、死後も長く敬愛されていたことがうかがえる。
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日英合作の舞台も
英国商館長の日記にも、領民に慕われている按針の様子が書かれている。その日記には、平戸から江戸に向かう途中で、妻のゆきが按針一行のために藤沢までパンと牛肉、ワインを届けさせたというユニークなエピソードも残っている。
浄土寺には按針のことで聞いてくる人も多い。諸先生方の著書を参考に小冊子だが5年前に按針の伝記「青い目のサムライ 按針に会いに」を出版した。横須賀は近代以降の歴史が知られているが、江戸時代にも日本史に欠かせない活躍をした按針がいたことを描きたかった。このころから横須賀で「按針で街おこしをしよう」という機運が盛り上がっていった。
2008年には日英修好通商条約締結150周年を記念し、依頼を受けロンドンと按針の故郷メッドウェイ市で講演をさせていただいた。この時、按針の念持仏を持参したが、これを見て感激の涙を流したのが、RSC(ロイヤル・シェークスピア・カンパニー)の演出家・芸術監督のグレゴリー・ドーラン氏だった。
シェークスピアと同時代に世界で何が起きていたかを検証するという企画を立てていた彼は、シェークスピアと同年生まれの按針に関心を持っていた。こうして日英合作の舞台「ANJIN イングリッシュ・サムライ」が09年に日本で初上演され、ドーラン氏ら一行が浄土寺を来訪した。
そのドーラン氏が今年また来日し、12月に横浜と東京で「家康と按針」と題し舞台を再演する。按針役は人気俳優に変わり、演出にも磨きがかかったという。家康役は名優市村正親さんだ。
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「按針サミット」が夢
来年2013年が、日本初の英国商館が長崎県の平戸に設立されて400年目にあたるのを記念し、1月にロンドンでも上演される。平戸でも記念行事を予定しているそうだ。私はいつか、按針を広く知ってもらうためにも、ゆかりのある地域と連携を深め横須賀で「按針サミット」を開きたいと願っている。(へんみ・みちお=浄土真宗本願寺派浄土寺住職)