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その気持を形あるものにしたのが日光東照宮の大造替です。
家康は家光が13歳の時なくなりました。
家光のもっていたお守りが現存しています。
「東照権現、将軍 心も体も一ッ也」
≪家康公と将軍の私は、心も体も一ッ也≫
「いきるもしぬるも なに事も 大ごんげんさま次第」
家光は死後も家康と生活を共にすることを願い、
自分の墓も東照宮につくるように言い残しました。
大猷院(たいゆういん)です。
天海廟の背後にあります。
天海の廟(びょう)所は家康との約束によって日光に決められていました。
大猷院【画像】
家康、家光以外の将軍は、寛永寺か増上寺にまつられています。
家光は、天海を家康と同列視していました。
祖父のような親しみを感じていました。
家光は川越に9回も訪れ、天海僧正を訪れたりしています。
1638年に、川越大火によって喜多院のほとんどが消失しました。
家光は、天海僧正の喜多院の再建を命じ、
江戸城から客殿や書院を移築しました。
・「家光誕生の間」
・「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」
がそれです。
これらは、江戸城の唯一の遺構です。
家光は、天海が病気になったとき、1ヶ月の間に4回も上野の寛永寺に見舞っています。
家光が、もっとも敬慕する家康・それに代わる天海が眠る日光に自分も眠りたいと考えたのは当然のことでした。
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