家光廟(びょう)の大猷院 (たいゆういん)
東照宮に向いており、家光の家康に対する強い思慕を現しています。
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大猷院の位置
家康の墓は日光にあります。
家光の墓も日光です。
その他の将軍の墓は、寛永寺か増上寺です。
2代将軍秀忠と於江与(おえよ、淀君の妹)には、家光と2歳下の男児がいました。
秀忠と於江与は、次男を偏愛し、3代将軍にしようとしました。
当時は、長子相続が確立していませんでした。
それを察知した家光の乳母の春日局が、
家康に直訴した結果、3代の座は家光に決まりました。
家光が13歳の時、家康は75歳で没しました。
家光は、家康を神のようにあがめていました。
家光のもっていたお守りが現存しています。
「東照権現、将軍 心も体も一ッ也」(家康公と将軍の私は、心も体も一ッ也)
「生きるも 死ぬるも 何事もみな 大権現様次第に」
家光の気持ちを形あるものにしたのが日光東照宮の大造営です。
1634年から1636年にかけて東照宮の大改築を行い、
家光は死後も家康と生活を共にすることを願い、
自分の墓も東照宮につくるように言い残しました。
大猷院(たいゆういん)です。
大猷院【画像】
家光は、世継ぎが生まれないので、天海に祈願しました。
家康が寅年、秀忠が卯年、自分が辰年で、4代将軍は巳年の必要がありました。
巳年に、4代将軍家綱は生まれました。
*日光に竜虎の争う絵はありません。
家康= 虎、家光= 竜だからです。
1638年に、川越大火によって喜多院のほとんどが消失しました。
家光は、喜多院を再建し、江戸城から客殿や書院を移築しました。
「家光誕生の間」「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」がそれです。
これらは、江戸城の唯一の遺構です。
家光は、天海を家康と同列視していました。
祖父のような親しみを感じていました。
家光は川越に天海を9回も訪ねています。
日光の大猷院(たいゆういん)は、慈眼堂(天海の墓所)の上にあります。
家光は、天海が病気になったとき、
1ヶ月余の間に4回も上野の寛永寺に見舞っています。
家光が、家康と天海が眠る日光に自分も眠りたいと考えたのは当然のことでした。
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徳川家光【画像】
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