
「家光公誕生の間、春日局化粧の間」が喜多院に
- 家光公誕生の間と春日局化粧の間が喜多院に残っています。
江戸城関係で唯一残る遺構です。
春日局は家康と喜多院に天海を訪れたことがあります。- 2009年の宝物展では家康のよろいかぶとや天海の護身かぶとなども展示されています。
- 庭には、家光お手植えの桜があります。
- 喜多院の文化財
- 文京区春日は、春日局にちなんで付けられた地名です。
- 春日【地図】
- 春日通りも同様です。
- 春日通り【地図】
- 麟祥院(りんしょういん)は春日局の菩提寺です。
- 春日局像や春日局出世稲荷もあります。
- 春日の地図クリックで画像表示
- 2代将軍秀忠夫妻は、家光よりも2歳年下の弟のほうを溺愛し、将軍にしようとしました。
- それを察知した春日局は、お伊勢まいりと称して江戸城を抜け出し、決死の覚悟で、駿府(すんぷ)の家康に直訴直言します。
結果、家康は江戸に入り、皆の前で家光が世継ぎであることを宣言し、家光の3代将軍の地位が確立します。 世に言う「春日局抜け参り」です。- このこともあり、家光は祖父家康を神とあがめます。
春日局を母と慕います。
- このこともあり、家光は祖父家康を神とあがめます。
- 当時は乳の出る女性が新生児に乳を飲ませる「乳付け(ちつけ)」は当たり前でした。
乳母(うば)の性格、容貌は乳児にうつるとされ、選定はきびしくおこなわれました。 - 「春日局」の称号は天皇から授けられたものです。
- 春日局は、大奥の制度を整え、絶大な権勢を振るいました。
老中の堀田正盛、松平信綱らにも大きな影響を与えました。 - 春日局は、1643年9月14日に65歳でなくなりました。家光は7日間の喪に服しました。
- 天海も1643年になくなりました。
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- 春日局【像】
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