今日のゲストはエジプト生まれのフィフィさんです。
2度目の出演となる今回は、アフリカとイスラームの関係について語っていただきます。
600年以上も前に、世界のトラベルガイドを残した人物がいます。
イブン・バットゥータは、イスラーム法学者にして、世界一の大旅行家です。
生まれ故郷のアフリカを後に、西はイベリア半島から東は中国まで、全行程11万7千kmを旅しました。
その距離は地球3周分に匹敵し、少なくとも14世紀ではバットゥータが世界一だと考えられます。
イスラーム法学者だったイブン・バットゥータは、当時、様々なイスラーム国家を旅して歩きました。
そして見聞きした出来事を、旅行記にまとめました。
アフリカ大陸にイスラーム教が与えた影響ははかり知れず、現在もイスラーム教徒が人口の半分を超える国が数多くあります。
イブン・バットゥータの旅行記は、日本語版も出版されています。
イブン・バットゥータは、中東地域やアフリカでは有名な人物です。
各地で恋をしたり結婚をしたりしていたことから、放浪しては恋に落ちるタイプの男性のことを
「あなたはイブン・バットゥータみたい」と言ったりもするそうです。
イブン・バットゥータの他に世界を旅した人物と言えば、「東方見聞録」を残したマルコ・ポーロが有名です。
アファール猿人は、今からおよそ400万年前に登場した人類の祖先です。
2本足で歩いていたと考えられています。
アフリカでは、このアファール猿人よりさらに古い猿人も発見されています。
「アフリカは人類発祥の地」という説が有力です。
人類はやがて文明を持つようになります。
サハラ砂漠にある「タッシリ・ナジェール」では、大昔の文明を伺い知ることができます。
8000年前の壁画には、人の姿と船が描かれています。
サハラはその頃、水の豊かな草原地帯でした。
6000年前の壁画には、牛が描かれています。
その先頭には人の姿があり、牛を家畜として飼っていたことを示しています。
驚くことに、キリンの姿も描かれた壁画もあります。
ところが、4000年ほど前からサハラは乾燥化が始まり、緑が失われていきました。
今からおよそ2500年前の壁画には、ラクダが描かれています。
乾燥したサハラで、人々は牛に代わってラクダを飼い始めます。
その頃、地中海沿岸では古代文明が栄えていました。
砂漠の船と呼ばれるラクダを用い、サハラの東西、南北をつなぐ沢山の交易ルートが、当時すでに存在していました。
時代は下り7世紀に入ると、アラビア半島のメッカでイスラーム教が誕生します。
イスラーム教は瞬く間に勢力を伸ばし、アフリカにまでその範囲を広げました。
アフリカで最初にイスラーム化したのがエジプトです。
現在でも、カイロの街には沢山のイスラーム寺院=モスクが建ち並び、その塔の多さから「千の塔の都」という異名を持つほどです。
こうして7世紀にやって来たイスラーム教は、その後アフリカ各地に様々な繁栄をもたらしていきます。
イスラームが来ることで、今のエジプト人の価値観、イスラームの価値観が根付いていきました。
例えばアラビア語はイスラームとともに伝わって来ました。
フィフィさんは今でもアラビア語を使います。
そのため価値観や文字、言葉などといった、現在使われているものはイスラーム化によって伝わって来たといえます。
アフリカと言えば飢餓に苦しむイメージを持つ人が多いかもしれません。
しかしそれは、社会問題や地域的な問題で貧しい人が増えたのだといいます。
これまでアフリカでは、貧しい人を救っていくというシステムを、イスラーム教が伝えてきました。
それは今でも残っており、例えば「フードボックス」と呼ばれるものもあります。
フードボックスは、砂糖や油、塩など、すぐに腐らないような物を箱の中に入れ、イスラームの宗教団体に
送るものです。
宗教団体は、それを貧しい人の所に送ります。
そのため、イスラームが根付いている地域では、餓死する人は少ないといいます。
このように宗教的に助け合いの精神が根付いており、この考え方がイスラームの価値観であり、
社会システムなのだとフィフィさんは話します。
イブン・バットゥータは1304年、モロッコのタンジールという港町で生まれました。
当時はイスラーム王朝が隆盛を極め、タンジールの市場には香辛料やワインなど、様々な物資が溢れていました。
そうした品々は、紀元前から行われていたサハラの交易路を使い、イスラーム教徒であるアラブの商人たちによって
もたらされました。
このサハラの交易路によって西アフリカはイスラーム化していきました。
敬虔なイスラーム教徒だったイブン・バットゥータは、21歳の時、聖地メッカの巡礼にたった一人で
旅立ちます。
イブン・バットトゥータにとって、西アフリカで特に印象的だったのがニジェール川沿いの、黒人の街でした。
13世紀から15世紀にかけて栄えたマリ王国のジェンネという町です。
ジェンネは泥の街で、細い路地を挟む家々は、ニジェール川が運んで来た泥で作られていました。
ジェンネで最も高い建物はモスクで、これも泥で作られていました。
マリはイスラームの教えが行き届いた国でした。
イブン・バットゥータは旅行記に、
「マリの人々の中には不正行為が少ない。なぜなら黒人はとりわけ不正を嫌う人たちだからである。」
と書き記しています。
さらに、
「彼らは特にコーランを暗唱している。子どもの頃からきびしくしつける。」
とも書かれています。
イスラーム教徒だったマリ王国最盛期の国王マンサ・ムーサは、メッカに巡礼する時に大量の金をたずさえ、人々を驚かせました。
北のサハラからは塩が、南の森林地帯からは金や農産物がもたらされ、取引されていました。
交易によってマリは栄えていました。
マンサ・ムーサは、14世紀にカタロニアで作られた世界地図では、
「国に産する金ゆえに最も裕福な王である」
と書かれています。
西アフリカでは、イスラームの伝播によって黒人のイスラーム王国ができました。
アラブの商人との交易によって豊かになり、大きな都市が出来たのです。
イスラーム教のコーランに書いてあるのは、イスラームの価値観です。
イブン・バットゥータは、同じ様な価値観の人たちの所に行くため、安心して旅が出来たといいます。
彼の旅は、宗教的な事がきっかけで旅をするという点で、日本のお遍路さんと似ていると言えるかもしれません。
お遍路さんも四国の88カ所のお寺を回りますが、寺に宿泊することができることから、安心な旅が
出来ていたと考えられます。
そのような宗教的な後ろ盾があり、安心な旅が出来る点は、イスラーム教も仏教も同じと言えるかもしれません。
次はアフリカ大陸東の海岸地方を見ていきます。
イブン・バットゥータは、キルワという島を訪れています。
キルワには、当時この地方最大の都市がありました。
現在でも、大きなモスクの跡が残っています。
旅行記ではキルワについて、
「様々な都市の中で最も華麗な町の一つであり、最も完璧な作りである。」
と記されており、現在の様子からは想像もつかない程の発展でした。
キルワがそれほどの大都市になった理由は、イスラーム商人による海上貿易のおかげでした。
キルワを始め、東海岸地方には、海上貿易の拠点となった都市が多数あります。
そのひとつ、ザンジバルを見てみます。
ザンジバルの港に停泊しているのは、ダウ船と呼ばれる帆船です。
インド洋では、2000年の昔からダウ船を使った交易が現在まで行われています。
この交易は季節風を利用しています。
季節風は半年間、アフリカからアラブやインドの方向へと吹き、次の半年は逆にアフリカへと吹きます。
このインド洋の交易ルートに乗って、イスラーム教と共に文化や物も伝わったのです。
東海岸地方の都市では、様々な民族の文化を見ることが出来ます。
ザンジバル・ドアと呼ばれる木製のドアは、少し変わっています。
手の込んだ細かい彫刻はアラブ風で、草木のモチーフが特徴です。
そして銅で出来た鋲(びょう)はインド風で、魔除けの力があると考えられています。
ザンジバルドアは、2つの文化が融合したドアと言えます。
様々な文化が融合して生まれた東海岸地方独自の文化をスワヒリといいます。
スワヒリは、アラビア語で「海岸」や「海岸の住人」を示します。
スワヒリ文化の一例が言葉です。
・ジャンボ(=こんにちは)
・サファリ(=狩猟旅行)
などはスワヒリ語です。
アフリカの言語をベースに、様々な文化の影響を受けて生まれました。
スワヒリ文化は時間を掛けて熟成され、後の時代には「タアラブ」という音楽も誕生します。
伝統的なアフリカのリズムに、アラブやインドの影響が見られ、歌はスワヒリ語です。
このように、アフリカの文化とイスラームが融合した文化が、スワヒリ文化です。
風に乗って文化が運ばれ、様々な文化同士が交流してきたインド洋は、海のシルクロードと言えるかもしれません。
イスラームがアフリカに与えた影響の1つとして、
「Pax Islamica(パックス・イスラミカ)=イスラーム的平和」があります。
イスラーム教はもともと都市の宗教であり、また商人階層の人たちの宗教でもありました。
商人がアフリカの交易ルートに沿って入って行く中で、アフリカでも商業が盛んになり、都市を生み出していきます。
そういった中で宗教や学問が発達し、同時にアラビア語やアラビア文字が商業共通語として入っていきました。
このようにして伝統アフリカ社会の中に、イスラームを軸とする価値を共通とする社会が生まれてきました。
彼らは、言語は異なっていても、コーランの教えに沿った生活をしていくことがルールになっていきました。
そのような社会に住むという事で安心感を得ることができ、これをイスラーム的平和=Pax Islamica と呼びます。
イブン・バットゥータが見たアフリカは、14世紀の終わり頃でした。
その頃は、Pax Islamicaをアフリカの人たちも享受出来ていた、とても良い時代でした。
しかし、それからしばらく立つとヨーロッパ人がアフリカにやって来るようになります。
そういった中で「暗黒大陸」や「人種差別」といった用語が、アフリカに対してあてがわれることに
なってしまいました。
旅行記を残したイブン・バットゥータはアフリカ人でした。
宮本先生は
「アフリカの内側からアフリカ人が経験したことをより尊重していくアフリカ史を出来るだけ考えていきたい」
と話します。
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