「神君 伊賀越え」の図 http://blog.zaq.ne.jp/shibayan/article/160/ |
徳川家康像。埼玉県ときがわ町慈光寺像 |
この時、徳川家康は、織田信長の招待で、堺から京へ戻る途中でした。
徳川家康は、狼狽し、京の知恩院に入り腹を切り、織田信長の後を追うつもりでした。
しかし、本多忠勝などの進言を受け、伊賀の険しい山道を越え、海路三河国へ戻りました。
これを世に、「神君 伊賀越え」 とよびます。
徳川家康が知恩院に入ろうと思ったのは、知恩院が本寺であるからでした。
知恩院第25世の法主(ほっす)・存牛(ぞんぎゅう)は、知恩院中興の祖でした。
徳川家康の5代前の先祖でした。
厭離穢土 欣求浄土 /* |
徳川家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」(おんりえど ごんぐじょうど)は、岡崎の大樹寺の住職の贈り物でした。
穢れた国土を厭い、浄土を切望します。いう意味です。
川越・蓮馨寺第9代目知鑑(ちかん。1606- 1678)は、のちに知恩院の法主(ほっす)にまで昇りつめました。
知鑑が修理のために蓮馨寺から持ち込んだ阿弥陀三尊(『往生要集』の恵心(えしん)作。985年)は、いまも知恩院の千畳敷といわれる法然上人御堂に鎮座しています。
知恩院
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