2014/08/11

15  モンゴル帝国 ~草原と海の帝国~

15  モンゴル帝国 ~草原と海の帝国~

皆さん、こんにちは〜

今日のゲストは中国・内モンゴル自治区出身のイラナさん、素敵な民族衣装でいらっしゃいました。
イラナさんは、モンゴルの民族楽器・馬頭琴(ばとうきん)の奏者で、現在は日本に拠点を置いて活動しています。

【画像】スーホの白い馬はモンゴル人と馬の関係をよく表す物語

【画像】モンゴル帝国初代皇帝 チンギス・ハン

【画像】12世紀後半〜14世紀後半のアジアからヨーロッパが舞台


イラナさんが持ってきてくれた絵本「スーホの白い馬」は、モンゴルで昔から伝わっている、馬頭琴の
由来についての物語です。
日本でも、小学校の国語の教科書で多くの人に馴染みのある作品です。

羊飼いの少年スーホには、兄弟のように仲良く育った白い馬がいました。
しかしある時、殿様に馬を取り上げられてしまいます。
馬は逃げ出しますが、弓矢で撃たれ、スーホの家にたどり着くと死んでしまいました。
いつまでも一緒にいられるようにと、馬の皮や毛で作った楽器が馬頭琴でした。

この物語はモンゴル人と馬の関係を、よく表しています。
モンゴルの人々にとって、馬は家族のような存在で、馬がないと生活もとても困るといいます。
また、馬がいたからこそ、モンゴル帝国が大きくなったという側面もあるそうです。


モンゴル帝国は、かつてアジアからヨーロッパまで、ユーラシア大陸の大部分を領土としました。
草原を駆け抜ける無敵の騎馬軍団の姿は、見る者を震え上がらせました。

その、人類史上最大といわれるモンゴル帝国を築き上げたのが、チンギス・ハンです。

今回見ていくのは、12世紀後半から14世紀後半までの時代です。

【画像】帝国の支配下で「モンゴルの平和」がもたらされた

【画像】アジアとヨーロッパのつながりを強めた交易商人

【画像】≪日本へのモンゴル帝国の襲来は「元寇」として知られる

帝国の支配の下、ユーラシアには、「パクス・モンゴリカ」すなわち「モンゴルの平和」と称される状態が
もたらされました。

その平和を謳歌したのは、交易商人たちです。
彼らの活発な経済活動は、アジアとヨーロッパとのつながりを強めていきました。
そして、やがて来る「大航海時代」も、モンゴル帝国を抜きにして語ることは出来ません。

当時、鎌倉時代だった日本にモンゴル軍が襲来し、戦ったことは、「元寇」として日本史にも出てきます。


【画像】モンゴル高原に遊牧民が分かれて暮らしていた

【画像】チンギスの一族の祖先は狼と鹿から生まれたという伝説

【画像】有力な氏族にテムジンが誕生

中国の北のモンゴル高原には、遊牧を生業とする人々が、大小さまざまな集団に分かれて暮らしていました。

そのうちのひとつ、チンギス・ハンの一族には、ある伝説が伝えられています。
「上天(じょうてん)より命ありて生まれし蒼き狼ありき。その妻なる生白き牝鹿(めじか)ありき。」
これは、草原の強者・狼と優美な動物・鹿との間に生まれた人間が祖先だという言い伝えです。

一族は、モンゴル遊牧民の中で有力な
氏族となり、そしてチンギス・ハンが生まれました。
幼いころの名は、テムジンといいます。


【画像】父親が殺されるなど、皇帝になるまで数多くの苦難

【画像】争いに疲れた人々は平和を求めた

【画像】1206年に統一者チンギス・ハンとなる


しかしテムジンがチンギス・ハンとなり、世界帝国の皇帝に上り詰めるまでの苦難は、並大抵のものでは
ありませんでした。

テムジンが9歳の時、父親が殺されてしまいます。
当時、モンゴル遊牧民の間には、より豊かな草原を巡る争いが絶えず、父親もその中で暗殺されたのです。

テムジンは幼くして一族を率いる立場になりますが、父の部下だった者たちは、テムジンを見限って
離れていってしまいます。
テムジンは家族を守るため、地に這いつくばり泥をすすってでも、生き延びなければなりませんでした。
その後もライバルの氏族に捕らえられて鎖に繋がれたり、妻をさらわれたりと、何度も苦境に立たされ続けます。
しかしそうした困難に打ち克っていく中で、テムジンは冷静さや決断力、そして実行力を身につけていきました。

そのころ、高原に変化の風が吹き始めていました。
部族同士の争いに疲れた人々は、強力なリーダーの下で平和的に暮らすことを求めるようになっていました。

1206年、有力者が集まる最高意思決定会議「クリルタイ」において、テムジンはモンゴルの遊牧民族すべてを束ねる統一者「ハン」の称号を得て、「チンギス・ハン」となります。
モンゴル帝国の歴史の始まりです。

イラナさんは、実は、チンギス・ハンの一族の末裔だそうです。
毎朝起きると、まずチンギス・ハンに祈るのだといいます。


【画像】馬の機動性により圧倒的な軍事力を誇った

【画像】ユーラシアの大半を支配

【画像】民族や宗教に関わらず有能な人材を積極登用した


モンゴルの遊牧民族を統一したチンギス・ハンは、周りの国々を滅ぼし、あるいは従属させて支配を広げていきました。
馬の機動性を生かした彼らの前に、敵はいませんでした。

抵抗する者は徹底的に叩きのめして滅ぼしたため、自ら進んで領地を差し出して支配を受け入れる者たちも
現れました。
モンゴル帝国は、やがてユーラシアの大半を支配するようになります。

そして、そこに住む人々の中から、民族や宗教に関わらず有能な人材を積極的に活用しました。
チンギス・ハンの孫フビライが狩りに出かけたときの様子を描いた絵を見てみると、周りの部下たちは様々な
民族の出身だということがよく分かります(右図)。


【画像】5代皇帝フビライの時代に中国全土が支配下に

【画像】元朝を開き、北京に大都を造営

【画像】中国の伝統的な建築様式を用いた


第5代皇帝フビライの時代には、中国全土がモンゴル帝国の支配下となります。

フビライは「元」という中国風の王朝を開き、現在の北京に壮大な都である大都を造営しました。
中国で古くから都の理想形とされていた考えに沿って、伝統的な建築様式で建てられた、いわば
都の中の都と言えます。


【画像】ゲルによる遊牧生活も維持した

【画像】普段も戦争時でもゲルで移動した


ただし、宮殿のすぐ隣には移動式住居の「ゲル」を建て、遊牧民としての生活も維持していました。

彼らは、普段の遊牧生活のときも戦争のときも、ゲルとともに移動しました。
帝国の領土拡大において、この快適な移動式住居が果たした役割は、決して小さいものではありませんでした。


【画像】ゲルの材料はサンドバッグ程度の大きさの袋2つ分

【画像】部品はこれだけ

【画像】運びやすくするため壁は伸縮可能


えりさんは、チンギス・ハンもしていたであろう、モンゴル遊牧民の暮らしを体験してみました。
モンゴルの遊牧生活に魅せられた皆さんが集まってくれました。
サンドバッグ2つ分の荷物が、移動式住居のゲルの材料です。

荷物は、それぞれ30kg程度で、大人が4人いれば、運べる重さです。
袋から出したものを並べると、意外と少ないことがわかります。

まず、入り口の枠を組み立てたら、壁を作ります。
運びやすくするために、壁は縮めたり伸ばしたりすることができます。
今回使ったゲルは、よりコンパクトに持ち運べるよう、壁を上下に分割したタイプです。
そのため、しっかり組み合わせておく必要があります。


【画像】重さや力が分散するため木は細くても大丈夫

【画像】天窓の側面に棒を差し込み屋根の骨組みに

【画像】防寒と防水の2枚のシートをかけて完成


ゲルの柱となる一本一本の木は、強度がやや心配な細さです。
しかし、重さや力が全体に均等に分散するようになっており、強度は問題ないといいます。

続いて、屋根の組み立てです。
丸い天窓の側面に開いた穴に、周りから棒を差し込んでいきます。
最後に防寒用と防水用、2種類のシートをかけて完成です。


【画像】かなり広い内部

【画像】羊料理を皆でいただく

【画像】一体感がモンゴルの強さの秘密


内部は、袋たった2つ分とは思えないほどの広さがあります。

今回は1時間くらいかかりましたが、モンゴルの人たちは、もっと大きいゲルでも20~30分で
建ててしまうといいます。
最後は、全員で羊料理をいただきました。
チンギス・ハンも、このような生活をしていたのかもしれません。

丸いゲルは人と話しやすく、モンゴルの遊牧民同士は、初対面でもすぐ仲良くなるといいます。
この一体感や絆の強さが、モンゴル帝国の強さの秘密だったのかもしれません。


【画像】イラナさんによる素晴らしい「四季」の演奏

【画像】弦は馬の尾で、本体はかつては動物の皮が使われた


イラナさんに馬頭琴の生演奏を聴かせていただきました。
「四季」の素晴らしい演奏です。
この曲は、モンゴルに古くから伝わる民謡で、大自然とともにある人間の歓びを歌っています。

馬頭琴の2本の弦は、馬の尾の毛を数十〜百本以上束ねたもので、現在ではナイロンを使う場合もあるといいます。
本体部分は動物の皮を張っていましたが、現在では木の板が使われています。

イラナさんは、5歳まで遊牧民の生活をしていました。
遊牧民は、出かけるときに、鍵を閉めないといいます。
空腹で困った旅人などのために、ゲルの中にはお茶やお菓子が置いてあるのだそうです。
イラナさんの家族が帰ってきて、お茶やお菓子がなくなっていると、誰かを助けたと喜んだといいます。


【画像】交易を活発にするために広い支配を敷いた

【画像】統一によって関税がなくなり交易が活発に

【画像】帝国の通行証パイザによって商人は安心して移動できた


モンゴル帝国が、アジアからヨーロッパにまたがる広い地域を支配した目的のひとつは、東西交易を盛んにすることでした。

遊牧民は、生活物資の多くを交易に負っていました。
そのため、商人の行き来を活発にすることで、さまざまな物を手にすることができるようにするためでした。

それまで、ユーラシアを旅する商人は、国や街を通過するたびに関税を払わなければなりませんでした。
しかしモンゴル帝国が統一的に支配することによって、その必要はなくなりました。

さらに「パイザ」と呼ばれる通行証を発行し、その持ち主にはあらゆる便宜を図ることで、商人たちが安心して
移動できるようになりました。


【画像】ベネツィア商人のマルコ・ポーロ

【画像】東方見聞録を記した


そうした商人の中に、現在のイタリア、ヴェネツィア出身のマルコ・ポーロという人物がいました。
彼は、各地を旅して見聞きしたことを、「東方見聞録」という書物にまとめました。


【画像】黄金の島ジパングとして日本の記述もある

【画像】末裔がインドにムガル帝国を築く
   

日本が、「黄金の島ジパング」として紹介されていることは、あまりにも有名です。
そして、帝国はユーラシア各地の歴史にも、さまざまな形で影響を与えています。
たとえば16世紀には、モンゴル帝国の末裔がインドにムガル帝国を築きました。


【画像】大都は運河で海とつながり都に港があった

マルコ・ポーロが中国まで行くことができたのは、モンゴル帝国の平和のおかげだったと言えます。
「東方見聞録」によると、マルコ・ポーロは子どものころに父親と叔父と一緒にヴェネツィアを
出発したとされています。
その後、足掛け5年かけて、内陸アジアの乾燥した土地などを通って、中国に入りました。
しかし帰りは、海路を通ってヴェネツィアに帰ります。

陸というイメージのあるモンゴル帝国ですが、陸と海という大きなつながりを作っていました。
大都にも港があり、運河で海に繋がっていました。
このように大きな物流ルートを作ることで、物資が海と陸を循環するようになり、海もうまく
利用していたことがわかります。

陸側でも、草原を支配するものはチンギス・ハンの子孫でなければならないという考え方が、広く
広まっていきました。
そのため、後のユーラシアの歴史の中で、チンギス・ハンの子孫が歴史にさまざまな影響を与えた側面があります。

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