今回は中世ヨーロッパについて、特に当時の社会に強い影響を及ぼしていた、キリスト教を中心に話を伺います。
中世のヨーロッパでは、人々がキリスト教のもと、一つの世界にまとまろうとしていました。
そして「時代を大きく動かした」と、後々語られることとなる、「カノッサの屈辱」という事件が起こります。
この事件に大きく関わったのが、キリスト教会ローマカトリックの最高権威、
ローマ教皇のグレゴリウス7世でした。
今回の舞台は、5世紀から12世紀の西ヨーロッパです。
この時代、ヨーロッパを動かしていたのは、キリスト教の信仰の力でした。
その力が「カノッサの屈辱」を引き起こし、現在の西ヨーロッパの基礎を作ることになりました。
カノッサとは人の名前ではなく、土地の名前です。
ドイツでは「カノッサの屈辱」を歴史の授業で習うため、大体の人が知っているといいます。
この時代は、日本においては、飛鳥時代から平安時代にかけての時代です。
当時の日本は天皇をトップとして国家が築かれており、仏教がとても大切な存在でした。
後白河天皇や、鳥羽天皇など、退位した後に出家した天皇なども数多くいました。
日本における仏教と同様に、キリスト教もヨーロッパに強い影響与えていました。
その影響は現在でも、祝日などに見ることが出来ます。
例えばドイツでは、東西ドイツの統一記念日以外は、イースターやクリスマス等、
全てキリスト教に由来する祝日です。
このように、ヨーロッパではキリスト教が大切にされ、生活に根付いています。
まず、皇帝と教皇の関係が築かれた、中世初期の時代から見ていきます。
4世紀末、ローマ帝国はキリスト教を国教として他の宗教や神を信じることを禁じ、
一神教世界となりました。
その後、ローマ帝国は東西に分裂し、5世紀に西ローマ帝国が滅亡します。
政治的保護者を失った人々は、ローマ教皇を頂点とするキリスト教会に、
精神的な支えを求めるようになります。
さらにその後、フランク王国が勢力を拡大します。
そして8世紀末には、フランク王カール大帝が、西ヨーロッパの大半を支配しました。
一方、ローマ教会はその頃、力を失っていました。
そのため、カール大帝のような権力者の後ろ盾を必要と感じていました。
800年、当時の教皇は、カールにローマ皇帝の冠を授けることにしました。
カールにとって、神の代理人である教皇から冠を授かることは、滅んだ西ローマ帝国の皇帝と同等だというお墨付きを得ることを意味していました。
権威を認めてもらった皇帝は、その代わりに教皇のために領地を寄付し、協会や修道院を積極的に建設します。
皇帝はローマ皇帝の称号を授かったことで、世俗の世界、すなわち現実社会での代表者として
権威を保障されました。
一方、教皇もまた、皇帝という後ろ盾を得て、西ヨーロッパにおける教会の代表者としての地位を
強固なものにしました。
こうして、世俗の権力者と教会の権力者は、持ちつ持たれつの関係となります。
しかし、この後、両者の関係は次第に対立関係へと発展していくことになります。
サンドラさんによると、当時、皇帝と教皇の関係は、教皇の方が上だと考えられていました。
教皇は神の代理人であるため、教皇の背後には神がいるという考えがあったためです。
当時は大きな病気や災害が起きると、神に罰せられたのだと考えている人が多かったといいます。
そのような社会において、神やカトリック教会など、キリスト教は絶対的な存在でした。
カール大帝の死後、フランク王国は、複数の国に分裂します。
そして、その中の東フランク王国の王が、ローマ皇帝の称号を授かることになります。
これ以降の東フランク王国を一般に、「神聖ローマ帝国」といい、国王を「神聖ローマ皇帝」と呼びます。
この神聖ローマ帝国が現在のドイツの始まりです。
そのころ、北方からのノルマン人の襲撃によって領土を奪われるなど、社会は混乱していました。
そこで、皇帝は領土を守るために、土地の管理方法を考えます。
各地にいる修道院長や司教などの聖職者に、広大な土地を与え、彼らに管理させるというものです。
そして、その代わりに、「誰を聖職者にするかは自分たちが決める」と主張します。
こうして、世俗の者たちが聖職者の任命、すなわち「叙任」をするようになりました。
本来 聖職者とは、世俗を離れて祈り、働き、欲を捨てた生活を送るものでした。
もちろん、結婚は禁じられていました。
しかし皇帝たちは、自分たちの次男、三男などを聖職者に任命し始めます。
彼らは貴族出身だけあって、豪華な衣装を身にまとい、食事も贅沢なものでした。
そして結婚している者も少なくありませんでした。
こうして、貴族たちが介入し、教会は堕落の道を進んでしまいます。
そんな状況を変えるべく登場したのが、グレゴリウス7世でした。
11世紀はじめ、貧しい家の子として生まれた彼は、早くに修道院に預けられました。
そこは、クリュニー修道院といい、厳しく真面目な修道会でした。
グレゴリウス7世は厳格な教育を受け、神に仕える立派な聖職者として、成長していきました。
一方、教会の堕落はさらに進み、聖職者の地位を金銭で売り買いすることも珍しくなくなっていました。
グレゴリウス7世は1073年にローマ教皇の座に就き、堕落を正し、教会の本来の姿を取り戻すために教会改革に乗りだします。
グレゴリウス7世は、自分の絶対的な力を信じていました。
人々は神の存在を必要としており、世界で一番の支配者は、教会の最高位にいる
教皇自身だと考えていたのです。
グレゴリウス7世は、そもそもの堕落の原因は、世俗権力が叙任権を握っていることだと考えていました。
そこで、世俗による叙任を一切禁じました。
しかし当時の神聖ローマ皇帝であるハインリヒ4世は、自身の権威を保つために叙任権を譲らず、争う姿勢を示してきました。
叙任権をめぐって持ちつ持たれつだった皇帝と教皇の関係は、こうして対立関係へと代わり、「叙任権闘争」という争いが始まってしまいます。
現在でも聖職者である神父は、基本的には禁欲的な生活をしなくてはなりません。
しかしサンドラさんによれば、教会の一部の神父が少年少女に対して性的虐待を行ったという問題があり、
次第に表面化してドイツで問題になっているといいます。
教皇・グレゴリウス7世と、皇帝・ハインリヒ4世は、叙任権闘争で、真っ向から対立することとなりました。
教会の本来の姿を取り戻すために、グレゴリウス7世は負けるわけにはいきませんでした。
そこで更に態度を強め、「世俗の者が叙任を行った場合、教会から破門する」と宣言しました。
ハインリヒはその宣言を無視し、叙任を続けようとしました。
更に、教会の司教にも働きかけ、グレゴリウス7世を教皇の座から引きずり下ろそうと動いていました。
これによりグレゴリウス7世は、叙任を続けていたハインリヒに対して、宣言通り「破門」を言い渡しました。
この時代の教会からの破門は、社会的抹殺、つまり地獄行きを意味するものでした。
神に見捨てられ、社会からも人間扱いされなくなるという、とても恐ろしいものです。
更に、皇帝の家臣たちは、「教会から破門された者を皇帝にしておけない」と言い出します。
追いつめられたハインリヒは、罪の許しを受けたいとグレゴリウス7世に詫びてきましたが、教皇は拒絶します。
そしてついに、その日がやってきます。
1077年のある雪の降る寒い日、グレゴリウス7世が北イタリアのカノッサの城に滞在していた時のことです。
裸足に粗末な衣装の男が城を訪ねてきます。
その男はなんと、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世その人でした。
彼は、妻と息子と数人の使いを連れ、一切の宝飾品をはずしてやってきます。
教皇が会うのを拒絶すると、ハインリヒは雪の中、門の前で三日三晩泣きながら詫び続けたのです。
この、グレゴリウス7世と皇帝の間に起きた出来事を、「カノッサの屈辱」といいます。
結局グレゴリウス7世は、破門を解き、ハインリヒは皇帝の地位を守ることができました。
しかし、この「カノッサの屈辱」をきっかけに、教皇の権威は高まります。
皇帝と教皇の関係は、まさに、カノッサの屈辱を反映するものになったのです。
1122年、叙任権闘争は終結し、ヴォルムス協約が結ばれます。
その内容は、「皇帝は叙任権を放棄するが、聖職者に土地を与え続けること」というものでした。
こうして教皇の権威はますます強まり、グレゴリウス7世が理想とした世界、つまり神に仕える教皇が支配する時代となったのです。
その後、人々の宗教熱は高まり、ヨーロッパはキリスト教のもとに、一つにまとまっていきました。
ドイツでは、重要な謝罪をしに行くことや、謝罪のために悪い意味で緊張している場合に、
「den Gang nach Canossa antreten=(大事な謝罪のため)カノッサへ行く」
という言い回しを現在でも使うといいます。
破門は、宗教への信仰心に訴えて、要求を突きつけることだと言えます。
日本でも同じ時期の平安時代に、カノッサの屈辱と同様の「強訴(ごうそ)」という政治的な活動がありました。
武装した僧が、朝廷の政治等に不満があるときに、神輿(しんよ;みこし)をかついで主張を訴えに行くというものです。
神輿は仏(神)であるため、武士たちも矢を向けられませんでした。
そのため、要求がある場合には、強訴はとても有効な手段でした。
一方で、「神を利用したごり押し」という印象も、現代では否めないかもしれません。
カノッサの屈辱によって、皇帝は許しを得ることができました。
しかしこの後の世界は、ローマ教皇がヨーロッパ世界全体を支配し、権威を持って君臨するという時代に入っていきます。
歴史を研究する学術分野においては、このことを「神権政治」と呼びます。
ローマ教皇は、地上における神の代理人という立場をとり、端的には神が人間の世界を全体として統治する
という体制でした。
カノッサの屈辱によって、グレゴリウス7世によるローマ教皇側の神権政治の確立は、その後の
西ヨーロッパの歴史の中で、とても重要な意味を持ちました。
このように、中世ヨーロッパの社会では、キリスト教の影響力が大きかったということが言えます。
しかし一方で、ハインリヒが破門の宣告にも関わらず、叙任権を離さなかったという事実もありました。
ハインリヒの目線で、カノッサの屈辱を考えることで、新しい発見もあるかもしれません。
0 件のコメント:
コメントを投稿