山本五十六。連合艦隊司令長官、真珠湾攻撃を指揮。Yamamoto Isoroku 。4月18日没

山本五十六。連合艦隊司令長官、真珠湾攻撃を指揮。Yamamoto Isoroku 。4月18日没

山本五十六   1941年。57歳

・1884年4月4日。長岡市~1943年4月18日戦死。59歳

山本五十六(いそろく)は、父が56歳の時に生まれたので、
五十六とつけられました。母は45歳でした。

1919年から2年間、アメリカのハーバード大学で学び、
その後 米国駐在員にもなったので、アメリカの実力をよくわかっていました。


アメリカの油田、エネルギーに強い印象を受け、見学に出かけています。


後年、同じ地域出身の田中角栄は、
山本五十六の影響もあり、
米国石油メジャーの傘下から日本を解き放つべく、
ロシア、中東などと独自の資源外交を展開し始めました。


1934年には、ロンドンで開かれた米・英・日・仏・伊5か国による「海軍軍縮会議」では、山本五十六は日本代表になるなど、
日本海軍の中枢を担うようになっていきました。


日独伊三国同盟に反対しました。


1939年に55歳で連合国艦隊司令長官に任命された山本五十六は、
日本がアメリカと戦うことにはあくまで反対でした 。

しかし、連合艦隊司令長官は、現場監督のようなもので、
「アメリカと戦争をする」という軍令部の指示に
刃向かうことはできませんでした。


軍令部は、山本五十六を連合艦隊司令長官に任命することで、
戦争の是非論に口出しできないようにしました。




山本五十六は真珠湾攻撃も指揮しました。

1943年、飛行機で前線を視察する途中に暗号を解読され
撃墜され、戦死しました。


日本軍の情報は、アメリカにつつぬけでした。
日本、日本軍の恥辱です。
このことの総括はまだなされていないようです。
責任をとった人もいません。


農耕民族は、情報活動に重きをおかないくせがあります。
上層部に見られる傾向で、組織の存続にかかわります。



【名言】
「やって見せ  言って聞かせて  させてみせ、

ほめてやらねば   人は動かじ」


 <*  体罰なしの元祖・山本五十六>


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山本五十六は、対米戦争や三国同盟に反対したしました。

英語が堪能でニューヨークに3年半も住み、米国海軍をよく観ていました。
海軍戦略ももっていました。

しかし、海軍と陸軍の連携がとれず、
非合理な役所仕事の戦争の犠牲になりました。


【22分】真珠湾攻撃から80年 封じられた非戦の信念
山本五十六と盟友 堀 悌吉(ていきち)



        【54分】真珠湾攻撃78年目の真実 ~日米ソの壮絶スパイ戦争 

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★ 日本は情報軽視

日本の情報軽視は今に至っています。
西欧では諜報活動は立派な職業です。

「むかし、CIAで働いていたよ」と淡々と話すアメリカ人がいました。

英国の人気作家 サマセット・モームも諜報員でした。

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常在学習  常在戦場

常在学習の時代 
山本五十六は「常在戦場」とよく揮毫(きごう)しました。








連合艦隊・司令長官  山本五十六「国葬」へ