どうして川越商人は豊かになりましたか? #はてな 川越 #横田 五郎兵衛 #新河岸川舟運 #江戸と直結 #近江、丹波、伊勢などの商人

どうして川越商人は豊かになりましたか?    #はてな 川越  #横田 五郎兵衛  #新河岸川舟運  #江戸と直結  #近江、丹波、伊勢などの商人 


新河岸川舟運を通して江戸と直結していたからです。

横田 五郎兵衛(よこた ごろべえ)は、大坂の堂島の米相場を左右する力をもっていました。
米穀、酒・醤油製造業を営みました。
新河岸川の舟運で財を成しました。
川越藩御用達となりました。
江戸蔵前、大阪堂島の米相場をも動かしました。
川越藩の藩財政も支えました。

幕府は、
大阪商人の扱う一流品の商品を
江戸でもめざしていました。
そのため近江、丹波、伊勢などの商人の関東への移住をうながしました。  

なぜ、川越城の防備を、異常に堅固にしたのですか?#はてな 川越 #北の守り #将軍の来訪 #北の守り

なぜ、川越城の防備を、異常に堅固にしたのですか? #はてな 川越 #北の守り #将軍の来訪

川越城は北の守り

川越城は、北からの攻撃を防御するために鉄壁である必要がありました。

徳川家康、2代 徳川秀忠、3代 徳川家光は、鷹狩で再三川越を来訪しています。
その際、川越城が宿舎となりました。
3代 徳川家光は川越城に2ヶ月半も逗留したことがあります。
天下の将軍を守るためにも、城の防備は万全である必要がありました。


3代 徳川家光と天海大僧正

3代 徳川家光は、徳川家康なきあと、川越 喜多院の
天海大僧正を、
祖父とあがめていました。


なぜ100万の江戸の衛生状態はよかったのですか? #はてな 川越 #人糞は金肥 #川越に運搬

なぜ100万の江戸の衛生状態はよかったのですか?  #はてな 川越  #人糞は金肥  #川越に運搬 


よかったです。
人糞を下肥(しもごえ)として、川越に、売ることができたからです。


江戸の人糞は、
新河岸(しんがし)川舟運で川越に運ばれ、
川越商人・農民に利益をもたらしました。

金肥(きんぴ)として、循環し、重宝がられました。

新河岸川(しんがしがわ)舟運  


★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★

 

パリでは、(人聞きで)、 
人糞の通りを歩くためにハイヒールが必要になったとか、
また、異臭をさけるために香水が盛んになったとか、
いわれていますが、
江戸ではそんなことはなかったです。
しっかり、循環していました。


江戸が100万の世界一の都市になり、困ったことはなんですか。#はてな 川越 #玉川上水 #玉川兄弟 #松平信綱

 江戸が100万の世界一の都市になり、困ったことはなんですか。#はてな 川越  #玉川上水  #玉川兄弟  #松平信綱  


徳川家康は、湿地ばかりの江戸と取り組むことになりました。

(https://pano.beau-paysage.com/edocreate_first/)

江戸は湿地帯

江戸は湿地帯

3代 徳川家光が、

参勤交代を実施しことにより、
江戸は100万を超える大消費地になりました。
世界一の大都市です。


困ったのは、飲料水です。
海岸を埋め立てた江戸には
飲料水がありませんでした。

それを解決するために考えたことは、水を引くことでした。

玉川上水からの水が解決策でした。


玉川兄弟が工事をおこないました。

【3分】玉川兄弟と玉川上水(先人の働き) NHK 

工事の総奉行は松平信綱でした。


なぜ、仙波東照宮には 徳川家康の大きさを表す霊獣 ばかりが飾られているのですか。 #はてな 川越 #仙波東照宮 #霊獣 #天海僧正

 なぜ、仙波東照宮には 徳川家康の大きさを表す霊獣 ばかりが飾られているのですか。 #はてな 川越  #仙波東照宮  #霊獣  #徳川家康  #3代 徳川家光 #天海僧正    新河岸川舟運  

仙波東照宮

狛犬

たしかに、仙波東照宮には、民衆に親しまれる彫刻はないですね。

仙波東照宮は、直営社です。
もともと、民衆の参拝を予定していません。 


また、喜多院は、
仙波東照宮の別当寺(べっとうじ)です。
仙波東照宮に付属する寺でした。


仙波東照宮は、徳川家康を祀った神社です。
天海僧正が建立しました。

1638年、「寛永の大火」で仙波東照宮は焼け落ちました。
3代 徳川家光が喜多院復興の命をくだします。

新河岸川舟運は、
仙波東照宮再建の資材運搬のために開かれたものです。

喜多院には、「家光誕生の間」、「春日局化粧の間」など
江戸時代の香りを色濃く残す徳川家とゆかりのものが残されていますが、
新河岸川舟運で運ばれたものです。




なぜ、川越藩には 参勤交代がなかったのですか? #はてな 川越 #3代 徳川家光 #参勤交代

なぜ、川越藩には 参勤交代がなかったのですか?    #はてな 川越  #3代 徳川家光  #参勤交代  


参勤交代は3代 徳川家光が始めました。


参勤交代では、藩主は、1年ごとに江戸に住むことになりました。


川越城は、江戸城の北側を守る役目を担っていました。

川越城には、老中、大老などの有力大名がつきました。 

大老2名、老中6名がでています。


かれらは、幕府の中枢で強い権限を発揮しました。


江戸定府(じょうふ、参勤交代なしで江戸常住)のため、
川越でつとめをはたす余裕がありませんでした。

いわば、本社勤めなので、自分の支社にもどるヒマがありませんでした。




どうやって、松平信綱は、100万江戸の食糧問題を解決しましたか。 #はてな 川越 #松平信綱 #参勤交代 #新河岸川舟運

どうやって、松平信綱は、100万江戸の食糧問題を解決しましたか。 #はてな 川越 #松平信綱 #参勤交代 #新河岸川舟運


参勤交代制度により、
江戸は世界一の100万歳になりました。


新河岸川舟運


松平信綱は、100万都市 江戸の食糧問題を
新河岸川に舟運を開設することにより、解決しました。

舟運の解説は、いわば、川越~江戸に高速道路、新幹線を通したようなものです。

人馬による運搬に比べ大量に運べるために大いに繁栄しました。

秩父、小川、東松山、越生、所沢、 飯能、青梅からの荷物が 川越の河岸場(かしば)に集中しました。

川越は大きな商業圏となりました。 また人間の往来も頻繁になり、江戸の文化が川越にどんどん入ることにもなりました。 【※】 若狭 小浜が京都の台所であったように、川越は江戸の台所でした。


なぜ、松平信綱は川越城を大拡張できたのですか? #はてな川越 #松平信綱 #北条氏 #江戸城

 なぜ、松平信綱は川越城を大拡張できたのですか? #はてな川越 #松平信綱 #北条氏 #江戸城


川越城

武家諸法度では、城の増改築は禁じられています。 大名家が、とりつぶし になることもありました。

川越城の拡張が許されたのは、 江戸城のまわりをよりしっかり固めるためでしょう。

川越城は、江戸城の北のまわりの監視役です。

松平信綱は川越城を強固にするために、 城を大きくし、周囲にも堅固な武家地をつくりました。 町人地、寺社地もつくりました。 このころ前の領主 北条氏をしたっている領民も多々います。 また北条氏の旧家臣団は脅威でもあります。

徳川家康が八王子城、鉢形城を廃城にしたのも、 北条への脅威からです。

関東の城マップ



なぜ、川越城は、 天守をつくらなかったのですか? #桑原政則雑記 #はてな川越 #保科正之 #文治政治 #松平信綱

なぜ、川越城は、  天守をつくらなかったのですか?     #桑原政則雑記    #はてな川越  #保科正之  #文治政治  #松平信綱

なぜ、川越城は、  天守をつくらなかったのですか?
   
まずは江戸城の天守閣の話。
1657年「明暦の大火」で江戸城は焼けました。 

実力者 会津藩主・保科正之は、天守閣の再建に反対しました。
保科正之は3代 徳川家光の異母弟です。   

時は、島原・天草一揆により「武断政治」から「文治政治」に変革の最中です。

天守のない江戸城こそ、平和の江戸の象徴だったのでしょう。

島原・天草一揆を仕切った松平信綱は、
保科正之に同調し、
川越城に天守をつくりませんでした。

それよりも
川越まつり
を奨励しました。

御食国(み-け-つ くに)の若狭 小浜は、「日本遺産プレミアム」 #桑原政則雑記 #若狭 小浜 #小浜 #御食国(み-け-つ くに) #酒井忠勝 #け(笥) #鯖街道

御食国(み-け-つ くに)の若狭 小浜(わかさ おばま)は、「日本遺産プレミアム」      #桑原政則雑記    #若狭 小浜  #小浜  #御食国(み-け-つ くに)  #酒井忠勝  #(笥)  #鯖街道   

 

★1 御食国(み-け-つ  くに)とは、「け(笥=食物)の国」のこと
★2 若狭国小浜藩の初代藩主は、酒井忠勝



★1 御食国(み-け-つ  くに)とは、「け(笥=食物)の国」のこと

1)け(笥)=「食物を盛る器」⇒ 食物

け(笥)は、「食物を盛る器」のことで、
転じて「食物」となりました。

【※ け(笥)の例
「家(いへ)にあれば、け(笥)に盛る飯 (いひ) を、
旅にしあれば椎 (しひ) の葉に盛る」〈万葉集・一四二〉


2)「み」=尊敬すべき物への接頭語

み-け(笥)=(天皇陛下の)「お召し上がり物、食物」 



3)「み-け-つ」の「つ」とは、「~の」のことです。

「み-け-つ くに」で  「食べ物国」 となります。


【※ 「つ」=「~の」  の例

「沖つ白波」⇒ 沖白波 

「まつげ」の「つ」は、「目++毛」のこと




通して、「み-け-つ  くに(御食国)」  で、

(天皇陛下への)食物 の(=を納めた)国 (若狭 小浜)のことです。


若狭 小浜と京都をつなぐ鯖街道は思いの外近い

★2 若狭国小浜藩の初代藩主は、酒井忠勝

若狭国小浜藩の初代藩主は、酒井忠勝です。

川越藩の第3代藩主10万石から
若狭(わかさ)国小浜藩の初代藩主に12万3500石で栄転しました。

3代 徳川家光は酒井忠勝を特に信任し、
「我が右手は酒井忠勝、我が左手は松平信綱」と述べました。
なお、松平信綱は、川越藩の名君です。

酒井忠勝は、老中、大老の要職につきました。


酒井家は、将軍家の親族です。
現在の皇室とも、つながっています。

享年76歳。小浜神社に祀られています


川越の時の鐘は、酒井忠勝がつくったものです。
酒井忠勝は、獅子舞を愛好するあまり、
川越から獅子の演者を小浜へ連れていきました。
小浜市の「雲浜獅子(うんぴんじし)」です。

小浜市と川越市は姉妹都市です。
マチとマチの交流で、地域は物語がふえ、歴史も文化も豊かになります。

(--;)

若狭 小浜は、京に近い港を抱えた有力藩でした。
京の周辺防備の拠点です。
小浜は京の真北にあります。
鯖街道で80キロです。


小浜は京の真北

日本海の外港は、外敵襲来への道ともなっています。

平安時代には、刀伊の入寇(といのにゅうこう)事件がありました。
中国大陸の女真族(じょしんぞく)が、北九州沿岸に攻め込みました。

1978年には小浜市の海岸で、北朝鮮による拉致事件も発生しています。


(未完)