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東照宮の逆さ柱は未完成の象徴

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12本の柱でできている陽明門 。wikipedia ふつうのグリ紋柱。 http://coopers.seesaa.net/article/112825067.html さかさ柱 陽明門は12本の柱で支えられています。 柱には、グリ紋が彫られています。 グリ紋は渦巻でできています。 1本の柱は、グリ紋の向きがさかさまになっています。 「魔除けの逆柱(さかさばしら)」です。 建物は完成した途端に崩壊が始まります。 「満つれば、欠ける」といいます。 一箇所だけまちがいを残し、まだ建築途上であることをあらわしました。 日光東照宮の彫刻

唐子(からこ)遊び

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唐子遊び src:  http://plaza.rakuten.co.jp/porsche997/diary/20110914/ 陽名門の唐子(からこ)遊び彫刻も子供たちが安心して遊べる時代が来て、達成された泰平を示すものです。 唐子遊びは天下泰平のシンボルです。子供たちが安心して遊べる社会を希求していたことがわかります。 戦国時代には、子供たちが安心して遊べる環境にはありませんでした。 キリンなどの霊獣も太平の世のシンボルです。

東照宮には、なぜトラの次にウサギが多い?

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このウサギは波をこわがっていません。 出典: http://redpanda.at.webry.info/200808/article_12.html 祖父家康を熱烈崇拝していた家光は、日光東照宮を全面的に建て替えます。 1636年に完成します。 東照宮には実在する動物の彫刻は120体あります。 虎が最多で38体です。 次ぎに多いのが兎で、19体あります。 家光の父の秀忠は、うさぎ年でした。 霊獣彫刻では、龍が最多です。 徳川3代の将軍のえとは、とら、う、たつと続きます。 「竜虎の戦い」の彫刻はありません。 虎(=家康)と竜(=家光)が戦う彫刻など、家光には恐れ多すぎることでした。 家康が38歳の時、2代秀忠が生まれました。 家光は自分が38歳の巳年のときに、男児が生まれるように、天海に念力祈願をおねがいしました。 1641年、4代将軍家綱が誕生しました。

眠り猫の裏にはスズメが

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日光の眠り猫の裏のスズメ 家康の奥舎に至る坂下門に「眠り猫」の額があります。 猫は、奥社の家康を守るため、 前足を踏ん張りいつでも迎撃できる体勢を保ちながら、 「日光」をあびながらおだやかに眠っています。 眠り猫の裏には、宙を舞っている2羽のスズメが描かれています。 猫とスズメが共存共栄し、スズメ(= 庶民)が安心して暮らせる平和な世の中が到来したことをあらわしています。 この他にも、武器をたべるバクの彫刻もあります。 東照宮境内案内図 *     *     * 【作業メモ フォトショップ】 2枚の写真を1コマ納める [1枚目:500*にする]―[レイヤー:背景→ レイヤー0に] [2枚目:500*にする]―[レイヤー:背景→ レイヤー0に] [ファイルメニュー]―[新規]―[1000*500]―[レイヤーパレットから2枚の写真を移動ツールで移動]―[切り抜きツールで画像サイズを調整] *     *     * 日光を歩く 目次 (改稿:2011年11月)

日光東照宮の回転燈籠はオランダからの献上品

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右:陽明門の左下に灯籠が 陽明門にある8角形の燈籠(とうろう)は、1636年にオランダから奉納されたものです。 軸を中心に回転します。 オランダからの東照宮への奉納は3回おこなわれました。 上部についている三葉葵(みつばあおい)の紋が、まちがえてさかさまになっています。 日光東照宮オランダ燈籠・模刻制作 *     *     * 1600年代アジアの海は激しく流動していました。 1624年オランダは台湾・台南市にゼーランディア城(安平古堡)を築きました。 日本との貿易中継基地に使うためでした。 そのころ日本は台湾などを拠点にアジア各地との貿易を拡大しようとしていました。 1626年2隻の日本船がゼーランディア城近くに立ち寄りました。 中国大陸との貿易のためでした。 オランダは、貿易品に課税し、日本が支払いを拒否すると、貿易品を没収しました。 1628年、報復のために、日本の朱印船が500人の乗組員と武器を満載して、ゼーランディア城を攻撃しました。 貿易品を奪い返し、オランダ人5人を人質に取り、長崎・平戸の商館を封鎖しました。 このころは、台湾があり、中国があり、東南アジアがあって、 大航海時代でした。 この事件の解決には10年かかりました。 オランダは、さまざまな品物を将軍に献上しました。 東照宮にあるアムステルダム製の銅の回転灯籠はこのときに献上されたものです。 回転灯籠の裏には、このようなドラマがありました。 【cf.】田中優子『江戸の想像力』 ▼ 朝鮮通信使や琉球慶賀使も日光を訪れ、 日光東照宮の宗教的権威を高め、 「世界の徳川幕府」 を海外に知らせました。 *     *     * 日光を歩く 目次 (改稿:2011年12月) *     *     * 江戸の想像力―18世紀のメディアと表徴 posted with amazlet at 10.01.24 田中 優子 筑摩書房 ...

日光の三猿は人生物語の一幕

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三猿の絵 「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿は、8枚の絵の1枚です。 小さいうちは、「悪いことを見ない、言わない、聞かない」ようにしなさいという教えです。 字の読めない人々にもわかるようにとのことです。 8枚の絵は、赤ん坊の時代から結婚するまでを物語っています。 山あり谷ありの一生を、平和にすごすための導きのようです。 1 母子の信頼時代 母が小手をかざして遠くを見、子どもの幸せを願っています。 母を見上げる赤ちゃんは、信頼しきっています。 2 「見ざる、聞かざる、言わざる」(子供時代、トップの写真) 三猿の教えです。 「小さいときは、悪いことを見たり、聞いたり、言ってはいけません。素直に育ちなさい。」 いまの子供に必要なしつけです。 子供(≒猛獣)に自由を与えすぎてはいけません。 家庭で、一族で、地域で、 しつけをおこなうことが必要です。 学校などは頼りになりません。 3 一人きりの猿 腰をすえてこれからの人生を考えています。 少年から青年になり「独り立ちしようかな」と不安な状態をあらわしています。 4 坂の上の雲 きびしい目つきで坂の上の雲をながめています。 雲は青く塗られています。 青雲の志を抱いている青春期の猿です。 5 挫折と友情 左の猿のすぐ右の猿が挫折をしたようです。 崖っぷちから下をながめています。 そんなとき、背中に手を当てなぐさめはげます友がいます。 6 恋 右の猿は物思いにふけって、何もする気力がうかがえません。 恋に悩んでいるかのようです。 左の猿は、我関せずです。 7 結婚 結婚した猿のようでう。 2人には荒波が待ち受けています。 2人は力を合わせ人生の荒波を超えようとしています。 8 子供の誕生 子供が誕生する前の母猿です。 子供ができて、物語はふたたびはじめに戻ります。 神厩舎(しんきゅうしゃ)   http://goo.gl/7EOaz 三猿の絵は、神厩舎(しんきゅうしゃ)に掲げられています。 表門をくぐった左手にあります。 神厩舎には、家康が乗っていた馬が奉納されていました。 この厩舎(きゅうしゃ...

東照宮の「宮」って?

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川越の仙波東照宮 (せんばとうしょうぐう) 1617年に静岡の久能山(くのうざん)から家康の遺骸を日光に移すとき、天海は亡きがらを黄金のみこしで運ばせました。 1300人の武士を随行させ常に天海がみこしによりそいました。 行列は、江戸城には立ち寄らず、川越の喜多院で実に4日間もの大法要を営み、日光におさめました。 一行は約20日間もかけて日光へ到着しました。 神の誕生を天下に告知するための天海の周到な演出でした。 「徳川家康は東照大権現となって再び現世に戻り、神威で徳川政権を守る。」 これが、 天海が構想した家康神格化のプログラムです。 これにより泰平の江戸期が実現 しました。 葬儀の導師をつとめた天海はこのとき80を越えていました。 今に続く日光の「千人武者行列」は、久能山から日光へのこのときの行列を模したものです。 天海は東照宮を全国に建てることに熱心でした。 600社ともいわれる東照宮が生まれ、東照大権現の神威は全国に行き渡るようになりました。 このうち、久能山東照宮、日光東照宮、および川越の仙波東照宮を3大東照宮とよびます。 <*川越藩主に徳川幕府の重鎮が配されたのは、 江戸の精神世界の建設者の天海 が、川越の喜多院住職であったことも関係しています。老中は松平信綱など6名、大老は柳沢吉保、酒井忠勝の2名> 仙波東照宮は、1617年、家康の亡きがらを久能山から日光へ運ぶ途中、わざわざ喜多院へ寄り法要が営まれたことにより建立されました。 徳川家では、家康だけが神で、あとの将軍は仏です。 家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主 であるからです。 天海は、家康を「東昭大権現(とうしょうだいごんげん)」という神様にし、260年以上にわたり徳川家の安泰をはかり、日本に平和をもたらしました。 260年の泰平は世界史上希有なこと です。 泰平の時代の礎を築いたのが家康、天海です。 家康は極楽に往生しようとは考えませんでした。 あの世に浄土をつくるのではなく、地上天国の実現を願いました。 神になり、死後もこの世にあって、戦乱のない平和な世の中をつくろう としました。 東照宮(とうしょうぐう)は、もともとは東照社とよばれていました。 1645年天皇が東照社を、次の理由で、東照宮に格上げ しま...