道灌から4代目にお勝という女性がおり、家康の側室となります。
勝負運が強いらしく、お勝がお供した関ヶ原の陣、大阪冬の陣、夏の陣は快勝でした。
太田道灌の血を引いていたこともあり、家康にかわいがられました。
ところで、2代将軍秀忠と江(ごう)は、家光よりも2歳年下の弟のほうを溺愛し、将軍にしようとしました。
それを察知した春日局は、お伊勢まいりと称して江戸城を抜け出し、決死の覚悟で、駿府に家康に泣きつきに行きましたが、会えませんでした。
世に言う「春日局抜け参り」です。
しかし、2人の間を取りもった者がしました。
…。
お勝です。
春日局の家康への直訴で、家光の3代将軍の地位が確立しました。
家光はこのことを忘れず、お勝のために鎌倉に英勝寺を建立しました。
お勝は水戸藩の初代藩主徳川頼房(よりふさ)の養母になりました。
その関係で水戸太田家は家老などの要職に就きました。
お勝が、太田家を再興しました。
【cf.】太田資暁(太田道灌18代目)「最初の江戸城を作った、太田道灌の先見の明」 『東京人』286号
英勝寺
太田道灌 まとめ