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11代徳川家斉(いえなり)。50人の子供、50年の統治と対外無関心。Ienari。2月27日没 

11代徳川家斉(いえなり)。50人の子供、50年の統治と対外無関心。Ienari。2月27日没 

11代 徳川家斉

・1773年11月18日~1841年2月27日没。69歳


11代徳川家斉は、御三卿(ごさんきょう) 一橋家の出身です。
【※】
御三卿(ごさんきょう】とは
田安(たやす) 徳川家、
一橋(ひとつばし) 徳川家、
清水(しみず) 徳川家

総称した呼び名です。
徳川宗家(そうけ)、御三家(
尾張、紀伊、水戸)にも跡継ぎがない場合、
御三卿から選ばれました。


50年間も政権の座にありました。

50人ほどの子供をつくりました。 
オットセイ将軍とよばれることもあります。

この時期には、自由な気風のなか、武家も町人も羽を伸ばしました。
歌舞伎や浮世絵の文化も花開きました。


加賀藩の東大(加賀藩の屋敷跡) 赤門は、
11代 徳川家斉の娘を
前田家が迎えた際に建設
されました。


11代 徳川家斉のころ、
経済は絶好調で、絢爛豪華な文化が
咲き乱れました。


しかし、軍事努力はなしで、50年の平和ボケの時代でもありました。


【8分】江戸幕府続く財政悪化の連続!どうする徳川家斉



世界では、
 1789年にフランス革命
 1800年にアヘン戦争
が起こっていました。



西欧がアジア4大国の
 オスマントルコ、
 ペルシャ、
 ムガール(インド)、
 清
を食い物にし始めました。


 イギリスは、アヘン戦争では清にアヘンを売りつけ、

香港を奪い、清をヘナヘナにしてしまいました。

1825年に、傍若無人のイギリスから、
軍艦・フェートン号が長崎にやってきました。 
幕府は軍備がなく、何もできませんでした。
長崎奉行は切腹しました。

日本は風前のともし火でした。



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