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家光の墓はなぜ日光に?

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wikipedia 3代将軍家光は、家康を神のようにあがめていました。 その気持を形あるものにしたのが日光東照宮の大造替です。 家康は家光が13歳の時なくなりました。 家光のもっていたお守りが現存しています。 「東照権現、将軍 心も体も一ッ也」 ≪家康公と将軍の私は、心も体も一ッ也≫ 「いきるもしぬるも なに事も 大ごんげんさま次第」 家光は死後も家康と生活を共にすることを願い、 自分の墓も東照宮につくるように言い残しました。 大猷院(たいゆういん)です。 天海廟の背後にあります。 天海の廟(びょう)所は家康との約束によって日光に決められていました。 大猷院 【画像】 家康、家光以外の将軍は、寛永寺か増上寺にまつられています。 家光は、天海を家康と同列視していました。 祖父のような親しみを感じていました。 家光は川越に9回も訪れ、天海僧正を訪れたりしています。 1638年に、川越大火によって喜多院のほとんどが消失しました。 家光は、天海僧正の喜多院の再建を命じ、 江戸城から客殿や書院を移築しました。 ・「家光誕生の間」 ・「春日局(かすがのつぼね)化粧の間」 がそれです。 これらは、江戸城の唯一の遺構です。 家光は、天海が病気になったとき、1ヶ月の間に4回も上野の寛永寺に見舞っています。 家光が、もっとも敬慕する家康・それに代わる天海が眠る日光に自分も眠りたいと考えたのは当然のことでした。 ---------- 徳川家光  ウィキペディア

東照宮にはなぜ虎の彫刻が多い?

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祖父家康を熱烈崇拝していた家光は、日光東照宮を全面的に建て替えます。 1636年に完成します。    <* 元の社殿は 世良田東照 宮に移築しました。> 東照宮には実在する動物の彫刻は120体あります。 虎が最多で38体です。 次ぎに多いのが兎で、19体あります。 霊獣では、龍が最多です。 家光は辰年です。 徳川3代の将軍の干支(えと)は、とら、う、たつと続きます。 「竜虎の戦い」の彫刻はありません。 虎(=家康)と竜(=家光)が戦う彫刻など、家光には恐れ多すぎることでした。 家康が38歳の時秀忠が生まれました。 同様に、家光は自分が38歳のときに、男児が生まれるように、天海に念力祈願をおねがいしました。 巳年の4代将軍家綱の誕生です。 (改稿:2011年11月) *     *     * 天海物語 目次

日光も四神相応(しじんそうおう)の地

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平安京、江戸は、四神相応(しじんそうおう)の地です。 風水における好適地のことをいいます。 日光もそうです。 北に亀山が鎮座し、東に稲荷川が流れ、南はなだらかに開け大谷川(だいやがわ)があり、西には中禅寺道が通じています。 鬼門軸には、毘沙門天をまつる外山があります。 日光を開山した勝道上人をまつる開山堂もあります。 裏鬼門には大黒山があります。 天海僧正をまつる慈眼堂(じげんどう)もあります。 日光は風水学から見て最適の地にあります。 ※ 日光霧降高原にて。2014/04/30 /src ページ末 * http://www10.plala.or.jp/VAIO/aki/nikko_kirifuri.html

「天皇」とは北極星のこと。左が格上の理由

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北極星は不動の星であり、宇宙を治める神と考えられています。 北極星を、中国では、天皇大帝(てんおうだいてい)と称しました。 「天に煌々(こうこう)と輝く大帝」という意味です。 日本の天皇という称号の起源と考えられています。 左が格上 「天子は南面す」 といいます。 北極星を背にするためです。 平安京で、御所(ごしょ、天皇の居所)が、都の北端にあるのも、北極星を背にするためです。 御所から見て、 左の方が格上なのは、太陽が出る方向だからです。 古い日本を残す沖縄では     東をアガリ、西をイリ といいます。 平安京の地図

川越は、日光からの気のエネルギー中継センター 

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川越は、日光からの気のエネルギー中継センター  陽明門の北極星と無数の星  <* 気は日光、川越から、江戸へ 日光には、巨大な龍穴(パワースポット)があります。 龍穴とはツボのようなもので、 気のエネルギーの巨大な貯蔵庫 であり、気の噴出する場所です。 また、 気の通り道を龍脈 と呼びます。 北極星となった徳川家康が、東照大権現となり、江戸を守るために、日光に気を送り込みます。 日光からあふれる気を受け止め、増幅し、江戸に受け渡すのが川越です。  川越は、武蔵野台地の北の端にあり、荒川という龍と入間川という龍をおさえる場所にあります。 川越は、2頭の暴れ龍をおさえ、日光からの気のエネルギーをしっかり江戸に送り込む気の中継所です。 気は日光、川越から江戸へ流れ込みます。 川越の喜多院当主でもある天海は、北極星である神・家康が、日光、川越を経由して、江戸を守るというしかけをつくりました。 【cf.】荒俣宏他

江戸の町はうずまき型

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江戸の水路   江戸の堀と川  /src wp 江戸の町は、うずまき型になっています。 平安京のような碁盤の目状ではありません。 うずまき型は、気のエネルギーをさらに活性化する働きがあります。 日光から龍脈を通って来た気のエネルギーは、うずまき型の江戸で高まります。  龍脈は、人間の血管のようなものです。               このしかけをほどこしたのが天海僧正と言われています。 うずまき型都市の実利は、次のようです。 うずまきだと無限成長できます。 敵から攻められにくく、守りやすいです。 火事の時には、堀が引火を最小に防いでくれます。 堀船で物を遠くまで運ぶことができます。 堀を掘った土で、低地を埋め、海を陸に変えることができます。

江戸城の裏鬼門に増上寺を配置

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増上寺は裏鬼門に配置 増上寺は、江戸を守るために日比谷から裏鬼門に移されました。 増上寺は、 徳川家の大事な菩提(ぼだい)寺 です。 菩提とは、死後の冥福(めいふく)のことで、菩提寺とは、先祖代々の墓という意味です。 徳川家は浄土宗で、増上寺は江戸の中で最も古い浄土宗の寺です。 川越・蓮馨寺(れんけいじ)出身の増上寺の法主(ほっす)・存応(ぞんのう)が、徳川家康と親交を深め、増上寺を徳川家の菩提寺にしました。 1616年死期の迫ったことを悟った家康は、天海ら3人を枕元に呼んで指示しました。 「わたしの遺体は駿河の久能山(くのうざん)にほおむり、 葬儀は増上寺 でおこない、…、1周期が過ぎてから日光に小堂を建ててまつりなさい」 1616年、家康が没すると、存応は増上寺で葬儀の導師を務めました。 ※1617年、天海は導師となり、徳川家康の遺骸を久能山から日光へ移送します。途中、一行1300人は川越の喜多院で4日間にわたり法要します。このため川越の仙波東照宮は、日光東照宮、久能山東照宮とならび三大東照宮と称せられます。 ※天海が存応と論争をしたとの記録が残っています。 増上寺では、 6人の将軍がミイラのあぐらの姿勢で裏鬼門を守り続けていました。 2代秀忠、6代家宣、7家継、9代家重、12代家慶、14代家茂です。 1960年ごろこれらの墓は改葬されました。 家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定の6人は寛永寺で、表鬼門を守っています。 家康と家光は、特別で、日光です。 増上寺

川越の喜多院をあるけば日本の宗教がわかる。日本の宗教は神・仏教(かみほとけきょう) <川越

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川越の喜多院をあるけば日本の宗教がわかる。 日本の宗教は神・仏教(かみほとけきょう)  <川越 天海僧正お手植えの槙(まき) 天海僧正お手植えの槇(まき)の立て札 「 天台宗では、神仏習合といい、神様と仏様を 同じく礼拝 します。」 天台宗では、神仏習合で、神様と仏様を同じく礼拝します、とあります。 自分だけが尊いとする一神教とは、ちがいます。 最澄の天台宗は神・仏教(かみほとけきょう)です。 最澄は、 比叡山でも僧侶を生み出せるように朝廷に働きかけました。 最澄の夢がかない、最澄の比叡山延暦寺は、 自前で正式な僧侶を輩出できるようになりました。 比叡山からは、すぐれた宗教家が生み出されました。       法然の浄土宗 (1133- 1212、80歳)       親鸞の浄土真宗 (1173- 1262、90歳)       栄西の臨済宗 (えいさい、ようさい)(1141- 1215、75歳)       道元の曹洞宗 (1200- 1253、54歳)       日蓮の日蓮宗(1222- 1282、61歳) 徳川家康のアドバイザーは、天台宗の天海です。 天海が創建した上野の寛永寺は、東叡山(東の比叡山)とよばれます。 天海は、川越 喜多院の住職です。 日本の宗教は、似たり寄ったりで、 神仏習合(しんぶつ しゅうごう)です。 カミとホトケは同居です。 仏教以外の密教の神や民間信仰をも、 まぜこぜ(シンクレティズムSyncretism)です。   「 山川草木  悉皆有魂 (さんせんそうぼく  しっかいゆうこん)」で、 動植物や自然にも魂があると考えます。 敷石供養塔。川越・中院 敷石を天台宗などでは、供養します。 踏みつけられて人の役に立つ敷石を、魂あるものとして供養します。 敷石供養塔(しきいし くようとう)です。 石にも、日本では、魂がある、と考えます。 本殿に「おびんづるさま」 「おびんづるさま」は 「なでぼとけ」ともよばれます。 釈迦の弟子です。自分の体の悪いところと 「おびんづるさま」 同じ場所をなでると、よくなります。 ...

なぜ、上野に桜?

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上野の花見。2003年4月6日   不忍池の弁財天   上野は花見シーズンには人でいっぱいです。 徳川3代の相談役・天海僧正は 上野に桜を植える必要 がありました。 それは、朝廷政治に対し、武家政治を確立し、江戸を守るためです。 天海僧正は、他にも、京に対抗するためのいろいろなしかけをつくりました。 京の鬼門を封じているのは、比叡山の延暦寺です。  天海僧正は川越の東叡山を江戸の鬼門帯にある上野に移し、東叡山寛永寺を開きます。 比叡山は琵琶湖を従えており、竹生島(ちくぶじま)には弁財天がまつってあります。  天海僧正は、不忍池(しのばずのいけ)を、強引に、琵琶湖に見立て、弁天島をつくり弁財天をおきました。 比叡山と東叡山 京 江戸 比叡山 →  東叡山 延暦寺 →  寛永寺 琵琶湖 →  不忍池 竹生島の弁財天 →  不忍池の弁財天 吉野の桜 →  上野の桜 御所 →  輪王寺 鴨川 →  隅田川 上野公園の輪王寺。 http://goo.gl/thDHY 京には御所があります。  天海は、御所代わりのものを必要としました。 輪王寺(りんのうじ) です。 初代の当主は、天皇の皇子でした。 天皇の聖地といえば「花の吉野」(奈良県)です。  天海は、江戸にも「花の聖地」を必要としました。 こうして「花の上野」が誕生しました。 誕生秘話です。

☓川越は江戸の母 ↓

http://kuwabara03.blogspot.jp/2012/06/blog-post_12.html

江戸の台地と歴史

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5台地を従えた江戸城、近くまで海が 1590年、家康は、北条氏を滅亡に追いやります。 秀吉の命により、東海5カ国(三河、遠江、駿河、甲斐、信濃)から関八州に国替えとなります。 関八州は、相模、武蔵、安房、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)のことです。 関八州【 地図】 家康は、江戸の中核となる江戸城を     上野台地、本郷台地、麹町台地、麻布台地、品川台地 に囲まれる土地に築きました。 このころの江戸は、川越よりはるかにさびれた漁村でしたので、だれもが驚嘆しました。 いまの大手町は芝崎村という岬ですぐ近くが海でした。  ---------- 【江戸の歴史】 秩父出身の江戸太郎は、源頼朝に重用され、その勢力は、いまの千代田区、台東区、文京区、港区、新宿区まで及んでいました。 ここに江戸太郎は江戸城のもとになる江戸館を建てました。 太田道灌 (1432―1486)は、1457年に川越城を築いたあと、江戸館跡に、江戸城を築きました。

江戸は四神相応(しじんそうおう)の地形 

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江戸は四神相応(しじんそうおう)の地形  四神相応の地形 : 四神 【画像】 四神相応(しじんそうおう)の地形 四神相応とは、陰陽学(おんみょうがく)で、土地が栄え、人間がしあわせにくらす条件を備えた地形のことです。  陰陽学は、いまの天文学、地理学、哲学をあわせたような学問です。 風水(環境学)もこの一部です。 陰陽道(おんみょうどう)をきわめていた天海は、のちに「江戸の陰陽師(おんみょうじ)」とよばれます。 江戸は、      北の玄武に丘陵があり、    東の青龍に川が流れており、    南の朱雀が平野や水のたまり場で、    西の白虎には東海道などの大道があり、 理想的な四神相応(しじんそうおう)の地です。 しかし、江戸が居城に決まったとき、世間は驚愕しました。 草深い何もないへき地だったからです。

天海僧正 年表

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喜多院の天海像 * 年齢は数え年表示です。 *印は、要チェック、要出典 *  和暦西暦換算表 :* <*  原本は秀丸に格納> *     *     * 1536年、天文5年 (所伝) 福島県大沼郡会津美里町の高田で誕生。 長男。幼名は、兵太郎。 父は舩木。母は蘆名氏の娘。 1546年 11歳 実家の近所の龍興寺(りゅうこうじ)で出家、「隋風」と称します。3年間修行。 龍興寺は天台宗の円仁(えんにん)創建の古刹(こさつ、古い寺)。 円仁は、最澄の弟子で、最後の遣唐使。天台宗を完成させた世界的な偉人。 天台宗は仏教の力で国を導くという国家鎮護を信仰の核にしています。 1549年 14歳 宇都宮市の粉河寺(こかわでら、現・宝蔵寺、ほうぞうじ)の住職に弟子入り。 住職の皇舜は高僧。 1553年 18歳 天台宗の総本山、比叡山に入山、実全に師事、天台教学を学びます。 比叡山は、最澄が山を開いてから、円仁、円珍、良源、源信、良忍、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮など各宗教の祖を生んだので、日本仏教の母とよばれています。またさまざまな芸能を生んだので、「山」といえば比叡山をさしました。 1556年 比叡山を下山。 大津の三井寺(みいでら、現・園城寺おんじょうじ)のに学びます。 奈良、興福寺などで学びます。林和成重に日本書紀を学びます。法相(ほっそう)、三輪を学びます。 1558年 23歳 実母病気のため、時会津へ帰省します。母は逝去。 1560年 栃木の足利学校に入り、4年間にわたり、儒学、漢学、易学、国学、経済学、天文学、医学、兵学を習得します。 天海は、粉河寺、三井寺、興福寺、足利学校と学業を続けます。 1564年 群馬県太田市世良田の善昌寺に学びます。 1571年 35歳 比叡山入山を試みますが、比叡山が織田信長により焼き打ちされ果たせませんでした。 天海は、 明智光秀の世話で、山門の学僧、衆徒と共に、武田信玄の元に身を寄せます。 武田信玄に請われ、山門の学僧と論議をしたり、天台宗について講義したりします。 1573年  会津に戻り数年間(@@@)滞在。 1577年 42歳 蘆名氏の要請を受けて...