編集用 古事記
- 古事記の概要と意義
- 意味 古いでき事を記したもの
- 712年
- 国際情勢 国内情勢 フィリピンとの違い
- 地方の古い言い伝えを大和朝廷の神話に組み込むことによって、地方豪族を大和朝廷の世界観に取り込み、思想的に日本を統一することにあった
- 日本最古の歴史書 上巻は神話、中下巻は天皇 神から天皇への物語
- 天皇は民と対立したことがない
- トインビー 神話を失った民族は滅びる
- 何のために書いたか
- 第二次大戦後、GHQが古事記の学校教育を禁止
- イザナキが日本を生んだ イザナギ→アマテラス→神武天皇(紀元前660) と続く
- 三浦 出雲と北九州、北陸、諏訪、さらに木の国(紀伊)とのつながり。ヤマトによる全国制圧前の列島の姿をほうふつとさせるという。
- 古事記は日本人に読んでもらうように書いたものです。日本書紀は中国人などに 古事記 712年完成 3巻 日本書紀は720年完成 30巻
- 「日本」ができたのなんて、7世紀も後半のこと 三浦
- 日本は一つなのではなく、日本はいくつもある 三浦 今でも
- 日本書紀は、中国に睨みを効かせた誇張&嘘も方便てな感じで日本は、中国より上であることを見せつける為に作ったものです。
- 大化の改新と関わる 乙巳の変にて 書倉が焼失してしまいそれ以前の 記録書物が焼失した為、書物の中身を覚えている人間が生きている間にもう一度 文章に書き出した物が 古事記 です。
- 古事記編纂の意図は、地方の言い伝えを大和朝廷の神話に組み込むことによって、地方豪族を大和朝廷の世界観に取り込み、思想的に日本を統一することにあったと思われる。豪族の神々を大和朝廷の神々と関連付けることは、豪族にとっても権威を保証するものである。*池澤
- 、息子の力を恐れて遠くに追い払ってしまう父天皇や、兄弟たちを次々に惨殺したり、求婚相手に逃げられたりする天皇、果ては、あなたの子だと思うなら育ててほしいと后に言われる天皇まで出てくる。なんなのだ、これは。三浦
古事記』ではヤマトを「倭」とのみ示し、「日本」と書かれることが全くありません。一方、『日本書紀』では逆に、ヤマトを大部分「日本」と記します 日本ができたのはこのころ
壬申の乱というクーデターで権力を独占した天武天皇が天皇家による支配の正当性を主張するために編纂されたのが日本書紀
古事記の神話の約4割が出雲の神々の物語で、そのほとんどが滅びの物語、滅びゆく者に対する鎮魂、悼みなんです。そこも古事記の大きな特徴であり、魅力でしょうね。/三浦
経過 現代の意義
ヤマトに生まれた王権によって日本列島が統一される以前の、正史からこぼれた生き生きとした豊かな物語で
「記紀と一口に言うが、古事記と日本書紀では歴史認識が異なる。出雲世界との対立に多くを費やす古事記には、律令(りつりょう)国家の正史である日本書紀にはない、語りの古層が反映されている。滅びていったものへのまなざしを読み取る解説書」
国家が求めた歴史とは一線を画したところに、その本文は存在し続けた
古事記では重要な部分を担う「出雲神話」が日本書紀に存在しないのはなぜか。
X 単一国家・単一民族論
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この国で歴史書といえるものが作られたのは推古二十八年(620)、トヨミケカシキヤヒメ(推古天皇)の治世下の聖徳太子の時で、皇太子(聖徳太子)と嶋大臣(蘇我馬子)が力を合わせて「天皇記と国記」の編纂に取り組んだとあります。
聖徳太子は、世界に比肩しうる法制度(律令)をもった国家になることを初めて意識するようになり、史書作りを始めました
この国では歴史書作りが試行錯誤されるようになったと考えられます。そして、古事記とは、そのようにして試みられたもののうちの一つではないかと考えられます
古事記は、その聖徳太子と蘇我馬子によって企図されたという「天皇記・国記」に連なろうという意識をもって編まれたのではないかと思います。なぜなら、古事記はまさにトヨミケカシキヤヒメを終点としており、その時点から過去を振り返り、ここまでやってくる道のりがいかに山あり谷ありであったかを懐古する視線で述べられているからです。
天武天皇は天智天皇の息子大友皇子を倒して即位します。争いを経て即位した自分の立場の正統性を主張する意図もあったといわれます。
古事記の神話の約4割が出雲の神々の物語で、そのほとんどが滅びの物語、滅びゆく者に対する鎮魂、悼みなんです。そこも古事記の大きな特徴であり、魅力でしょうね。/三浦
経過 現代の意義
古事記編纂の意図
地方の言い伝えを大和朝廷の神話に組み込むことによって、地方豪族を大和朝廷の世界観に取り込み、思想的に日本を統一することにあった
ヤマトに生まれた王権によって日本列島が統一される以前の、正史からこぼれた生き生きとした豊かな物語で
「記紀と一口に言うが、古事記と日本書紀では歴史認識が異なる。出雲世界との対立に多くを費やす古事記には、律令(りつりょう)国家の正史である日本書紀にはない、語りの古層が反映されている。滅びていったものへのまなざしを読み取る解説書」
国家が求めた歴史とは一線を画したところに、その本文は存在し続けた
古事記では重要な部分を担う「出雲神話」が日本書紀に存在しないのはなぜか。
「古い<出雲>という概念には、熊野も含まれるし、そればかりか諏訪(長野県)あたりの文化圏まで含むものだ」とおっしゃり、
聞いた私もすぐに、出雲のオオクニヌシの息子タケミナカタが、諏訪湖へ逃げた唐突さを思い出して、すんなり納得してしまったのですが、
X 単一国家・単一民族論
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この国で歴史書といえるものが作られたのは推古二十八年(620)、トヨミケカシキヤヒメ(推古天皇)の治世下の聖徳太子の時で、皇太子(聖徳太子)と嶋大臣(蘇我馬子)が力を合わせて「天皇記と国記」の編纂に取り組んだとあります。
聖徳太子は、世界に比肩しうる法制度(律令)をもった国家になることを初めて意識するようになり、史書作りを始めました
この国では歴史書作りが試行錯誤されるようになったと考えられます。そして、古事記とは、そのようにして試みられたもののうちの一つではないかと考えられます
古事記は、その聖徳太子と蘇我馬子によって企図されたという「天皇記・国記」に連なろうという意識をもって編まれたのではないかと思います。なぜなら、古事記はまさにトヨミケカシキヤヒメを終点としており、その時点から過去を振り返り、ここまでやってくる道のりがいかに山あり谷ありであったかを懐古する視線で述べられているからです。
最終的には日本書紀が日本の正史となったので、方向性の違う古事記は主流からはずれ、片隅に追いやられ、江戸時代に本居宣長に再発見されるまでほとんど顧みられなかった
参考:三浦佑之『古事記神話入門』。 長部日出雄『「古事記」の真実』。池澤夏樹 訳『古事記』
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