2020/04/07

聖徳太子=厩戸皇子(うまやどのみこ)。十七条の憲法を定める。Prince Shotoku。4月8日没

聖徳太子=厩戸皇子(うまやどのみこ)十七条の憲法を定める。Prince Shotoku。4月8日没


・574年2月7日~622年4月8日没。

「聖徳太子」は、後世の尊称で、生前は厩戸皇子(うまやどのみこ)とよばれていました。


聖徳太子  新しい国作り     【+10】NHKこども

蘇我馬子と力を合わせ、天皇中心の国をつくる
603年  冠位12階
17条の憲法    和をもって貴しと為す


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 聖徳太子の頃の高句麗  ※wp

厩戸皇子(うまやどのみこ)のころの日本は、
天皇や豪族たちが争う混沌期でした。

天皇に強い力はありませんでした。

混沌日本を初歩の国家にしたのが、
厩戸皇子集団(=聖徳太子とそのグループ)です。

厩戸皇子は、20歳の時、推古天皇の摂政(代理)となり、
蘇我馬子と協調しながら政治をおこないました。

蘇我氏は、当時の先端科学・仏教を信奉していた渡来系の人々でした。

そのころ日本は、高句麗、新羅、百済に振り回されていました。

日本は、安定した外交を求めて、随との国交を求めました。

600年遣隋使が随を訪れます。
遣隋使は相手にされませんでした。
すべてがあまりに未熟で、国書さえ持参してませんでした。

厩戸皇子は、高句麗からの高僧・慧慈(えじ)に学びました。
さらに、多くの渡来人を斑鳩宮(いかるがのみや)に集め、
最先端の文化技術を吸収しました。

607年、廐戸皇子は第2回目の遣隋使を派遣、随の皇帝と対等な国交を結びました。

後世の日本人は、血塗られた天智天皇(てんじてんのう、中大兄皇子、なかのおおえのおうじ、 )よりも、
厩戸皇子集団を聖徳太子ひとりに集約し、
聖徳太子を誇るべき日本人として心に刻むようになりました。
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聖徳太子:日本社会の徳目は「和」

聖徳太子は、「和」がなによりも大事なことを知っていました。

それゆえ 「和をもって尊しとなす」を十七条憲法の第1条におきました。

和とは、古代から現代に至るまで、日本人にとって一番大切な徳目です。

和は儒教の重要徳目である「仁・義・礼・智・信」のなかに入っていません。


このことは、和は儒教精神とはかかわりのないことを示し、
日本が儒教国でないことを意味します。

聖徳太子の十七条憲法は、「和」「仏教」「天皇」からなっていますが、
太子は仏教よりも、天皇よりも「和」を先に置きました。
十七条憲法は、公務員の心構えを示したものです。

日本のまた世界の社会が、企業が、地域が、家庭がこわれてしまったのは、
和がなくなったからです。

パワーに物を言わせて、世界に「自由」「民主主義」を、
また「市場原理主義」を押しつける時代は終わらねばなりません。
日本人は、1対1では外国人にかなわなくとも、5対5でしたら、圧倒します。
和の力です。

日本人の強みは、組織の構成員として、一種の『家族意識』を有することにあ」 と経営学の神様ドラッカーも言っています。
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見直されている江戸時代

江戸時代が見直されています。
江戸時代には、地方分権が確立し、
「地産地消」が当たり前でした。

幕府は企業のいいなりになったりしませんでした。
(経団連という不可思議な組織もありませんでした。)

エコ社会でした。
使える物は使い尽くす循環型社会でした。

武士も貧しく、大名も土地をもたない平等社会でした。
【※】川越藩の歴代藩主も、知事のようなもので、土地を持っていませんでした。

労働時間は1日4時間ほどでした。

「安心」「安全」「平等」そしてなによりも「和」のためには、「ゆっくり、ゆったり」社会が必要です。

というのは、しあわせは物ではなく心にあるからです。




聖徳太子関連年表

574    厩戸皇子、天皇の子として生まれる    574年は、ウマ年。厩戸(うまやど)の近く        で生まれたとも。
593    推古天皇の補佐に。女帝・推古天皇は、厩戸皇子のオバ。
600    第1回遣隋使失敗
601    斑鳩宮(いかるがのみや)造営開始
603    冠位十二階を定める    能力主義で人材を抜擢。
604    十七条の憲法を定める。【受験】604 十七条の憲法  ◇群れよ、十七条の憲法に
607    第2回遣隋使    随は高句麗に手を焼いていました。598年高句麗は中国に侵攻します。随の皇帝・煬帝(ようだい)は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」との侮辱的な書を受け取りながら、対等の外交に踏み切らざるを得ませんでした。
622    厩戸皇子死去
643    蘇我入鹿が山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲撃。
    山背大兄王は、聖徳太子の子。聖徳太子一族の血統は絶えます。
645    乙巳(いっし)の変。蘇我入鹿暗殺さる。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、 天 智天皇)、中臣鎌足が、蘇我一族(蝦夷、入鹿)を滅ぼす。それまでは皇族と蘇我氏は協力関係。これで蘇我氏は逆賊にされ、中大兄皇子が善玉に。
645    大化の改新    豪族を天皇の下に置き、天皇を頂点とした国家へ変える改革
720   日本書紀完成    日本書紀は、天皇を教育するために編まれたもの。廐戸皇子が亡くなってから100年後に完成。

十七条憲法

※各項目は、一部抜粋です。
※一条と一七条で、正義ではなく、話し合い、和を重視していることに注意。

一条   【和】
和を貴(たっと)び、人にさからうことのないよう心がけよ。

二条   【仏教】
三宝(さんぼう)をあつく敬え。
三宝とは、仏像・経典・僧侶である。

三条  【天皇】
天皇の命令である詔を受けたなら、かならずつつしんでしたがうように。
君主こそ天であり、臣は地である。

四条
官吏は礼を基本とし、人民を統治する基本は礼である。

五条
美食や財貨への欲求にもとづく賄賂を受けることなく、公明公正に訴訟をさばくこと。

七条
官吏は、各任務があるので、職務をあやまらないようにせよ。

八条
官吏は早く出勤して仕事をし、おそく退出せよ。

十二条
国司(くにのみこともち)や国造(くにのみやっこ)は百姓(おおみたから)からかってに税をとってはならない。
国に二人の君はありえず、人民に二人の主はないと心得よ。

十三条
官吏たちは、自分の職掌をよく承知せよ。

十四条
官吏は、嫉妬の気持ちをもってはならない。

十五条
私心をさって公につくすことは、臣民の道である。

十七条
重大なことがらを決定するには、独断で決めてはならない。
かならず人々とよく議論をつくすべきである。 (『学研)』)

一七条憲法  全文

【cf.】2012/01  NHK。他

(※)天智天皇 (中大兄皇子、なかのおおえのおうじ)
645年、藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣、なかとみの)と共謀して蘇我氏をたおし、大化の改新をおこないました。

百済(ペクチェ)をすくうために朝鮮に出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で唐・新羅(シルラ)連合軍に大敗しました。

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