・574年2月7日~622年4月8日没。
「聖徳太子」は、後世の尊称で、生前は厩戸皇子(うまやどのみこ)とよばれていました。
聖徳太子 新しい国作り 【+10】NHKこども
蘇我馬子と力を合わせ、天皇中心の国をつくる
603年 冠位12階
17条の憲法 和をもって貴しと為す
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聖徳太子の頃の高句麗 ※wp |
天皇や豪族たちが争う混沌期でした。
天皇に強い力はありませんでした。
混沌日本を初歩の国家にしたのが、
厩戸皇子集団(=聖徳太子とそのグループ)です。
厩戸皇子は、20歳の時、推古天皇の摂政(代理)となり、
蘇我馬子と協調しながら政治をおこないました。
蘇我氏は、当時の先端科学・仏教を信奉していた渡来系の人々でした。
そのころ日本は、高句麗、新羅、百済に振り回されていました。
日本は、安定した外交を求めて、随との国交を求めました。
600年遣隋使が随を訪れます。
遣隋使は相手にされませんでした。
すべてがあまりに未熟で、国書さえ持参してませんでした。
厩戸皇子は、高句麗からの高僧・慧慈(えじ)に学びました。
さらに、多くの渡来人を斑鳩宮(いかるがのみや)に集め、
最先端の文化技術を吸収しました。
607年、廐戸皇子は第2回目の遣隋使を派遣、随の皇帝と対等な国交を結びました。
後世の日本人は、血塗られた天智天皇(てんじてんのう、中大兄皇子、なかのおおえのおうじ、 )よりも、
厩戸皇子集団を聖徳太子ひとりに集約し、
聖徳太子を誇るべき日本人として心に刻むようになりました。
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聖徳太子:日本社会の徳目は「和」
聖徳太子は、「和」がなによりも大事なことを知っていました。
それゆえ 「和をもって尊しとなす」を十七条憲法の第1条におきました。
和とは、古代から現代に至るまで、日本人にとって一番大切な徳目です。
和は儒教の重要徳目である「仁・義・礼・智・信」のなかに入っていません。
このことは、和は儒教精神とはかかわりのないことを示し、
日本が儒教国でないことを意味します。
聖徳太子の十七条憲法は、「和」「仏教」「天皇」からなっていますが、
太子は仏教よりも、天皇よりも「和」を先に置きました。
十七条憲法は、公務員の心構えを示したものです。
日本のまた世界の社会が、企業が、地域が、家庭がこわれてしまったのは、
和がなくなったからです。
パワーに物を言わせて、世界に「自由」「民主主義」を、
また「市場原理主義」を押しつける時代は終わらねばなりません。
日本人は、1対1では外国人にかなわなくとも、5対5でしたら、圧倒します。
和の力です。
「日本人の強みは、組織の構成員として、一種の『家族意識』を有することにある」 と経営学の神様ドラッカーも言っています。
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見直されている江戸時代
江戸時代が見直されています。
見直されている江戸時代
江戸時代が見直されています。
江戸時代には、地方分権が確立し、
「地産地消」が当たり前でした。
「地産地消」が当たり前でした。
幕府は企業のいいなりになったりしませんでした。
(経団連という不可思議な組織もありませんでした。)
エコ社会でした。
使える物は使い尽くす循環型社会でした。
武士も貧しく、大名も土地をもたない平等社会でした。
【※】川越藩の歴代藩主も、知事のようなもので、土地を持っていませんでした。
労働時間は1日4時間ほどでした。
「安心」「安全」「平等」そしてなによりも「和」のためには、「ゆっくり、ゆったり」社会が必要です。
というのは、しあわせは物ではなく心にあるからです。
聖徳太子関連年表
574 厩戸皇子、天皇の子として生まれる 574年は、ウマ年。厩戸(うまやど)の近く で生まれたとも。
593 推古天皇の補佐に。女帝・推古天皇は、厩戸皇子のオバ。
600 第1回遣隋使失敗
601 斑鳩宮(いかるがのみや)造営開始
603 冠位十二階を定める 能力主義で人材を抜擢。
604 十七条の憲法を定める。【受験】604 十七条の憲法 ◇群れよ、十七条の憲法に
607 第2回遣隋使 随は高句麗に手を焼いていました。598年高句麗は中国に侵攻します。随の皇帝・煬帝(ようだい)は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」との侮辱的な書を受け取りながら、対等の外交に踏み切らざるを得ませんでした。
622 厩戸皇子死去
643 蘇我入鹿が山背大兄王(やましろのおおえのおう)を襲撃。
山背大兄王は、聖徳太子の子。聖徳太子一族の血統は絶えます。
645 乙巳(いっし)の変。蘇我入鹿暗殺さる。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、 天 智天皇)、中臣鎌足が、蘇我一族(蝦夷、入鹿)を滅ぼす。それまでは皇族と蘇我氏は協力関係。これで蘇我氏は逆賊にされ、中大兄皇子が善玉に。
645 大化の改新 豪族を天皇の下に置き、天皇を頂点とした国家へ変える改革
720 日本書紀完成 日本書紀は、天皇を教育するために編まれたもの。廐戸皇子が亡くなってから100年後に完成。
十七条憲法
※各項目は、一部抜粋です。
※一条と一七条で、正義ではなく、話し合い、和を重視していることに注意。
一条 【和】
和を貴(たっと)び、人にさからうことのないよう心がけよ。
二条 【仏教】
三宝(さんぼう)をあつく敬え。
三宝とは、仏像・経典・僧侶である。
三条 【天皇】
天皇の命令である詔を受けたなら、かならずつつしんでしたがうように。
君主こそ天であり、臣は地である。
四条
官吏は礼を基本とし、人民を統治する基本は礼である。
五条
美食や財貨への欲求にもとづく賄賂を受けることなく、公明公正に訴訟をさばくこと。
七条
官吏は、各任務があるので、職務をあやまらないようにせよ。
八条
官吏は早く出勤して仕事をし、おそく退出せよ。
十二条
国司(くにのみこともち)や国造(くにのみやっこ)は百姓(おおみたから)からかってに税をとってはならない。
国に二人の君はありえず、人民に二人の主はないと心得よ。
十三条
官吏たちは、自分の職掌をよく承知せよ。
十四条
官吏は、嫉妬の気持ちをもってはならない。
十五条
私心をさって公につくすことは、臣民の道である。
十七条
重大なことがらを決定するには、独断で決めてはならない。
かならず人々とよく議論をつくすべきである。 (『学研)』)
一七条憲法 全文
【cf.】2012/01 NHK。他
(※)天智天皇 (中大兄皇子、なかのおおえのおうじ)
645年、藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣、なかとみの)と共謀して蘇我氏をたおし、大化の改新をおこないました。
百済(ペクチェ)をすくうために朝鮮に出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦い(663年)で唐・新羅(シルラ)連合軍に大敗しました。
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