松平 信綱 |
文治政治に切り替わります。
川越の城下町の整備、
野火止(のびどめ)用水の開削(かいさく)、
新河岸(しんがし)川舟運(しゅううん)の開設、
武蔵野新田の開発、
などに手腕を発揮した川越一の藩主です。
十ヶ町四門前(じっかちょう・しもんぜん) |
1638年の川越大火後に、城域を倍増し、今に残る
十ヶ町四門前(じっかちょう・しもんぜん)
という町割りをしました。
舟運は、知恵伊豆・松平(*)信綱が川越藩主になってから本格的に開かれました。
川越商人に莫大な利益をもたらしました。
【※】松平とは
松平とは、徳川氏の一門である他に、
徳川将軍が格式ある外様大名に授けた称号です。
江戸の技術文化を川越にたくさん伝えました。
三芳野神社の造営奉行でもありました。
川越まつりを始めたのも松平信綱です。
江戸の山車(だし)は東京では みこし になってしまいましたが、
川越の山車は江戸の様式をいまだに保存しています。
川越が
【3分】川越まつり 2000年
川越まつり概要
![]() |
1637年には島原・天草一揆(旧称・島原の乱)を、
12万以上の軍勢で鎮圧しました。
幕府はフランス艦を使い、無言の威嚇をしていました。
フランス艦は、実は、オランダから借りた偽装艦でした。
武断政治から文治政治にするため、
志願して、島原・ 天草の一揆に のぞみました。
「島原・ 天草の一揆」鎮圧の功績により、
1639年忍(おし)藩主から川越藩主に出世しました。
島原・天草一揆がもう再びないように、
・・・・・・・・・・・
松平信綱は、3代 家光が出生してから補佐し、
徳川幕府の老中首座もつとめ、
幕藩体制を固めました。
徳川家に59年にわたり奉仕しました。
特に家光には、家光の誕生以来47年間奉仕しました。
才知に富み、伊豆守という官職にかけて
「知恵伊豆」(= 知恵出づ)と言われました。
平林寺に廟所(びょうしょ)があります。
「知恵伊豆」をうたった小学校歌があるとのことです。
【※】平林寺(へいりんじ)のページ。松平信綱の墓地
3代 徳川家光は
「自分の右手は酒井忠勝(*)、左手は松平信綱」
と信頼を寄せました。
【※】酒井忠勝のことば
「信綱とは決して知恵くらべをしてはならない。あれは人間と申すものではない」
松平信綱は、自分の死の直前に、
関係書類を焼却しました。
カゲに徹するためでした。
肖像画も残っていません。
3代 家光から4代家綱の補佐をまかされていたため、
殉死(じゅんし。後追い自殺)はしませんでした。
川越の仙波東照宮 の1番大きな灯籠が松平信綱献上のものです。
生まれは埼玉県伊奈町です。
【YouTubeショーツ】
1 松平信綱
【世のうわさ】
「野火止(のびどめ)用水、
川越のまちづくり、
川越まつりで、
川越を小江戸にしてくれた川越藩一の名君・松平信綱を、
川越人はあまり口にしないですね。
家来になった川越人もいないようですし」
「本店の仕事がいそがしすぎて、支店には手が回らなかったようですね」
・・・・・・・・・・・
【※】大河内(おおこうち)正敏
大河内(おおこうち)正敏 |
松平信綱と同じく大河内松平家の系統です。
理化学研究所(理研)の3代目所長を25年間つとめました。
東大工学部卒で、貴族院議員でした。
大正天皇のご学友でした。
田中角栄を引き立てました。
川越駅西口の 旭町にあります。