
喜多院の天海像
- 1536年
会津で誕生します。
- 1546年 11歳
出家します。
寺は天台宗の円仁(えんにん)創建の古刹(こさつ、古い寺)です。
円仁は、最澄の弟子で、最後の遣唐使でした。天台宗を完成させた世界的な偉人です。 - 1549年 14歳
比叡山に入山します。 - 1558年 22歳
実母死去のため、一時会津へ帰郷します。
その後、栃木の足利学校に入り、儒学、漢学、易学、国学、経済学、天文学、医学、兵学を学びます。 - 1571年 36歳
比叡山延暦寺が信長により焼き打ちに会いました。
天海は、 明智光秀の世話で、山門の衆徒を引き連れて、信玄の元に身を寄せました。
武田信玄に招かれ、天台宗について講義をしました。 - 1573年
会津に戻り4年間滞在します。 - 1577年 41歳
この年から5年間、群馬県の寺で修行を積みます。
このように若いときから、天海は流浪の学問僧でした。 - 1590年 54歳
関東有数の大寺院、川越の無量寿寺に移ります。
無量寿寺は円仁(えんにん)の創建になるものです。11歳で入ったお寺も円仁がひらいたものでした。
無量寿寺は天台宗の関東総本山で580の寺を従えていました。
しかし、このころは北院も中院も荒れ果てており、南院は墓地を残すのみでした。
この年天海は、初めて江戸入りを果たした家康に謁見します。老体の無量寿寺の住職に代わってのことでした。 ここから天海の飛躍が始まります。 - 1599年 64歳
無量寿寺北院の住職になります。
のちに喜多院、三興の祖といわれます。 - 1600年
関ヶ原の戦いで家康の参謀をつとめます。 - 1603年 68歳
天海は家康に登用されます。
江戸幕府開幕の年です。 - 1607年
この年から5年間家康の計らいで比叡山探題奉行となり、経営の秘訣を学びます。
内輪もめの激しかった延暦寺を再興します。
探題(たんだい)とは、宗教の最高の権威者のことです。 - 1608年
駿府城で家康に「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」を講義します。
この後もしばしば家康に招かれ講義をします。
家康(1542-1616)の将軍としての在職期間は1603年から1605年までです。
その後は大御所として駿河に移ります。
駿河は、京都と江戸の中間にあり、両方ににらみをきかせることが出来ます。 - 1609年 74歳
天海は天台宗の権僧正(ごんそうじょう)になります。
権僧正は、大僧正、僧正に次ぐ地位です。 - 1611年
家康、川越に天海を訪問します。 - 1612年 78歳
天海は、家康の指示で、川越の無量寿寺北院を喜多院と改め、喜多院を関東天台宗の総本山に定め、山号を東叡山とします。
家康は、関東天台宗の全権を喜多院に与えます。
これにより家康は、朝廷側の比叡山の勢力を関東に移すことに成功します。
家康は喜多院に天海を訪ねます。 - 1613年
日光山の貫首(かんじゅ)も兼ねます。
貫首とは、天台宗の大きなお寺の住職のことです。 - 1616年
家康が死去します。
葬儀の導師となり、静岡の久能山に葬ります。
大僧正に任ぜられます。
このとき家光は13歳です。
家光は生涯で9回喜多院に天海を訪ねます。 - 1617年 81歳
家康に神号が朝廷から贈られます。
天海の主張通り「東昭大権現」となりました。
天海は導師となり、家康の遺骸を日光に移します。
儀式は「山王一実神道(さんのういちじつしんとう)」でおこないます。 - 1618年
江戸城内に東照宮を勧請します。 - 1623年
2代将軍秀忠(1578-1632、在職1605-1623)が死去します。
家光(1604-1651。在職1623-1651)が後を継ぎます。
天海は、秀忠、家光の政治顧問格でした。 - 1625年 90歳
上野に寛永寺を建て、山号を喜多院から遷座し東叡山とし、関東天台宗総本山にします。
喜多院の山号は以前の星野山にもどします - 1637年 102歳
寛永寺において活字版大蔵経(だいぞうきょう)の開版を企てます。
12年後に完成します。
全6323巻です。 - 1638年 103歳
川越大火で、喜多院が全焼します。
家光は自分の大切にしてきた誕生の間、春日局の間を江戸城の紅葉山から移築します。
「家光誕生の間」「春日局の間」がこの世に残る江戸城の遺構です。 - 1643年 108歳
10月2日、天海死去します。
1648年には慈眼大師の号を朝廷から賜りました。 - (年齢は数えで1月1日生まれ換算です。)
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