伊藤博文(ひろぶみ)。明治政府の最大の指導者。長州藩の農民出身。日本初の総理大臣。10月26日没
伊藤博文(前列左端)。右に大隈重信、井上馨 |
・1841年10月16日〜1909年10月26日没。68歳
伊藤博文は、百姓の子として生まれます。
吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)で学びます。
高杉晋作の影響を受け、パシリとなります。
「人の上に立とうとするなら、
ずっと先が見えなければならん」と習います。
22歳のとき、長州藩による留学生として、
井上馨(いのうえ かおる)らと上海経由でイギリスに向かいます。
上海やイギリスを見て、
外国と戦争しても日本は勝てないと思っていたところに、
長州藩が外国船を砲撃したことを知り、帰国します。
【※】四国連合艦隊 下関砲撃事件=下関事件
30歳のとき、岩倉使節団の副使として欧米諸国を視察します。
英語とドイツ語ができました。
この旅で伊藤博文の見識はますますみがかれ、
明治政府をリードしていく力がつちかわれます。
木戸孝允(こういん)、西郷隆盛、大久保利通らの明治維新の指導者たちが、あいついで世を去ると、
政府の最高指導者となりました。
憲法を作る必要を感じた博文は、ウィーンのローレンツ・フォン・シュタインを訪問して2ヶ月間にわたって自宅で国家学の講義を受けます。
【※】シュタインは、ユダヤ系の名前です。cf.アインシュタイン ウィトゲンシュタイン<stone 石
およそ10年の歳月をかけて、「大日本帝国憲法」を完成させます。
日本は、日清戦争に勝ち下関条約を結び、
伊藤博文の識見によって日露戦争を引き分けに持ち込むことができました。
伊藤博文は、1885年に日本で最初の内閣総理大臣になり、
総理大臣を4回もつとめました。
1909年,中国東北地方で朝鮮人革命家に射殺されました。
伊藤博文は、日韓併合反対論者でした。
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