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【武蔵観研通信】320号:2021年11月29日

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 【武蔵観研通信】320号:2021年11月29日               musashikankenATgmail.com    ATを@に変更                                   【 編集発行  桑原政則 】    ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ★ 人物  川越藩最後の藩主 松平康英(やすひで)。遣欧使節の副使で西欧、ロシアへ (書きかけ) https://kuwabara03.blogspot.com/2021/11/blog-post_28.html   徳川家康が「元和偃武(げんな えんぶ)」で誇りある現代日本を準備 <天海コラム#8 https://kuwabara03.blogspot.com/2021/11/blog-post_24.html   武田信玄は、天下統一前に病没    <天海コラム#7 https://kuwabara03.blogspot.com/2021/11/blog-post_23.html   信玄と天海:天海は比叡山が織田信長により焼き打ちされ、武田信玄のもとへ     <天海コラム#6 https://kuwabara03.blogspot.com/2021/11/blog-post_19.html   15代徳川慶喜(よしのぶ、ケイキ)。徳川政権を無血で天皇に返上。11月22日没   https://kuwabara03.blogspot.com/2016/11...

川越藩最後の藩主 松平康英(やすひで)。遣欧使節の副使で西欧、ロシアへ (書きかけ)

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  川越藩最後の藩主 松平康英(やすひで)。 遣欧使節の副使で西欧、ロシアへ 松平 康英 ・ 松平康英(やすひで)   1830年7月16日。 江戸~ 1904年7月5日。74歳。東京 2021/11/28 ウエスタ川越で、松平康英(やすひで)に関する初雁温知会50周年記念講演がありました。 講師は宮原一郎(川越市立博物館学芸員)さんです。 100名の参加者。皆様、2時間お疲れさまでした。 ※ 初雁温知会 俳優の市村正親も、メンバーです。 川越藩最後の藩主 松平 周防守(すおうのかみ) 康英(やすひで) は、遣欧(けんおう)使節の副使で西欧をめぐり、ロシアで国境画定の交渉をしました。 「 文久遣欧使節」は、 1861年から1年間にわたりました。 ※  文久遣欧使節行程『欧西行紀』 高島祐啓 1867年 文久遣欧使節行程   医師・高島祐啓(31歳) ※  周防守は、受領名(ずりょうめい) 周防守(すおうのかみ)は 受領名(ずりょうめい)です。 徳川家康からの「松平」は、多すぎて区別がつきません。 下の名前(「康英」)は、タブーです。 したがって、 受領名の 周防守(すおうのかみ)が「通り名」となります。 松平康英(やすひで)は、この時33歳、優秀だったようです。 福沢諭吉 は 29歳でした。 劇作家になる 福地桜痴 は22歳でした。 ※フランスでは、ナポレオン3世に謁見しました。 イギリスでは、大英博物館をしました。 オランダでは、オランダ国王に謁見しました。 ドイツでは、プロイセン国王に謁見しました。 偉かったのは、行く先々の香港、パリ、ロンドン、ベルリン、アムステルダムで地図を購入したことです。 ロシアとの国境画定交渉には地図が威力を発揮しました。 松平康英(やすひで)の交渉相手の アジア総督 イグナチェフ(  Ignatiev、  Игнатьев)は、30歳。 ていねいな話し方で、交渉は紳士的でした。 ※ ロシアの交渉は紳士的 ラクスマンは、日本との通商を求めるために、日本の漂流民をともない、1792年に根室に来航し、大黒屋光太夫らの漂流民を日本に送り返しました。 1804年、ラクスマンの入港許可証をもって、 レザノフが長崎に来航しました。 しかし幽囚同様の扱いを受け、通商は失敗しました。 ...

徳川家康が「元和偃武(げんな えんぶ)」で誇りある日本を準備 <天海コラム#8

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  徳川家康が「元和偃武(げんな えんぶ)」で誇りある日本を準備 応仁の乱(1467)から大坂夏の陣(1615年)まで150年続いた軍事衝突を、 家康は「元和偃武(げんな えんぶ)」の宣言で終了に追い込みました。 「元和偃武」とは、あたらしい「元和の時代に、戦乱をやめる」 ことでした。 武家諸法度(ぶけ しょはっと) という基本法が制定され、 幕府、朝廷、寺社ももめなくなり、国民も法に従い、近代社会への用意ができました。 ※ アフガニスタンなどは、  いくつもの 部族社会のまま で、 政情不安が続いています。 国をまとめることは、一大事業です。 徳川家康のしかめ像 ※ 浜松の三方ヶ原(みかたがはら)で武田信玄に破れたときのしかめっ面の画像。 明治になって、西欧と対等につきあえることができたのも、 徳川家康の「元和偃武(げんな えんぶ)」 による日本の 統一 によること大です。 ※ 感染症対策でも、 欧米の「自由を!私の民主主義を返せ!」とは、 日本は一線を画しています。 マスク、手洗い、3密回避で、日本は高い水準を維持しています。 江戸時代から、日本は 「きれい」が取りえです。 日本の生きる道は、観光立国の道です。 観光は、     平和産業、     防衛産業 でもあります。 「きれいな風景」 「明るいやさしい市民」 「清潔で犯罪のない国」は、 魅力的です。 日本は、ホテルのランクで言えば、安全清潔上品の「五つ星ホテル」 です。 日本の広域観光の発展が、 楽しいあかるい世界をつくります。 ・・・・・・・・・・・ #1  天海僧正の養生訓。健康法。勤行歩く粗食学習    <天海コラム#1  #2  天海は薬草にも通じていたので、家康の深い信任を得た  #3  天海は、織田信長による比叡山焼き打ちを逃れ、武田信玄の元へ。<天海コラム#3 #4  江戸を守る5寺社は、天海と川越が関係    <天海コラム#4 #5  天海は「家康=北極星」により東照宮信仰を確立   <天海コラム#5 #6   武田信玄と天海:天海は比叡山が織田信長により焼き打ちされ、武田信玄のもとへ<天...

武田信玄は、天下統一前に、無念にも、病没 <天海コラム#7

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 武田信玄は、天下統一前に、無念にも、病没 流浪の学問僧 天海は、 1571年35歳の時、さらに 学習を続けるために比叡山への入山を試みました。 しかし、比叡山が織田信長により焼き打ちされ、果たせませんでした。   天海は、 明智光秀の世話で、比叡山の学僧らと共に、 武田信玄の元に 身を寄せます。 武田信玄は、民政を重んじた徳政の人、書物好きの文人でした。 また僧侶でもありました。 天海は、武田信玄の元で、天台宗について講義したりしました。 武田信玄は、天海より15歳年上で、 天台宗の権大僧正(ごんだいそうじょう。大僧正の次)でした。 徳川家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に破れました。 しかし 20歳以上年上の武田信玄に徳川家康は心酔 します。 武田信玄 領 1568年   武田信玄は、甲州、信州、駿河、上野(こうずけ)を領する天下一の有力者でした。 今川義元も上杉謙信も織田信長も 消えたあとには、 武田信玄が上洛して幕府を再建するだろう、と衆目は見ていました。 しかし、武田信玄は、目的途上で病気のため53年の生涯を閉じます。 最後の勝利を得るためには、 長生きが必要 でした。 また、武田信玄は10年早く生まれすぎました。 今川義元    1519、1560、42年 武田信玄  1521、1573、53年 上杉謙信 1530、1578、49年 織田信長 1534、1582、49年  天海  1536、1643、108年 豊臣秀吉 1537、1598、62年 徳川家康 1543、1616、74年 伊達政宗 1567、1636、70年 生没年 表  (作業メモ ※いずれ横棒グラフに) #1  天海僧正の養生訓。健康法。勤行歩く粗食学習    <天海コラム#1  #2  天海は薬草にも通じていたので、家康の深い信任を得た  #3  天海は、織田信長による比叡山焼き打ちを逃れ、武田信玄の元へ。<天海コラム#3 #4  江戸を守る5寺社は、天海と川越が関係    <天海コラム#4 #5  天海は「家康=北極星」により東照宮信仰を確立   ...

川越観光案内 第12回 真行寺(しんぎょうじ):武田信玄の妹・真行尼が川越に開基

川越観光案内  第12回  真行寺(しんぎょうじ):武田信玄の妹・真行尼が川越に開基   川越観光案内  第12回  真行寺(しんぎょうじ) 2016年7月 ※ 旧稿の掘り起こしです。写真 9枚 は省略です。喪失。 副題↓ 武田信玄の妹・真行尼が開基。本堂の引き戸には、武田家の紋所・菱形を4つ合わせた武田菱(びし) が燦然と。 NPO武蔵観研 会長  桑  原  政  則 (この下からリード) ----------------------------------- 真行寺は、武田信玄の妹・真行尼 (しんぎょうに、八重姫)が建立しました。第2代住職は、武田勝頼の次男・靖清(やすきよ)です。 ------------------------(ここまで) 武田信玄の妹・真行尼 (八重姫) が建立 真行寺(しんぎょうじ)は、武田信玄の妹・真行尼 (八重姫)が、 1573年(天正元年) 川越に真行寺を建立しました。 川越は寺の多い街(74寺)ですが、女性が開いた珍しい寺です。 武田の遺臣たちが安心して住める町でもありました。 武田勝頼の次男が真行寺第2世住職に 1582年には、武田勝頼の次男・靖清(やすきよ)が真行寺第2世住職に就任しました。在世中に本願寺末寺になりました。 真行尼の人間関係: 兄は、武田信玄 真行尼の 父は武田信虎です。 信虎はわが子・信玄との確執で、駿河の今川義元のところへ逃れます。 80歳を超えて、全国流浪の旅にもでかけます。 兄は、武田信玄。信玄の側室は諏訪御前、その子は、 武田勝頼。 姉は、駿河の今川義元の正室。 武田一門は、甲府、八王子を経て川越へ 武田一門の者は、 甲府、富士吉田、大月・八王子を経由し、坂戸市に 多く土着しました: 岩崎、若山、宮島、松本、坂西、小鹿野、小川、林、関口、小川 氏など。 次第に川越の街道沿いに移り住むようになりました。  真田信昌、幸政は、真田幸村のいとこです。真行尼に、甲府から同行しました。 真行寺の檀家は広範囲 かつては、寺は村の中心にあり、檀家がそのまわりを囲んでいました。 しかし真行寺にあっては、 檀家が川島町、伊草、北田島、古家上、上福岡 などと外側に広がっています。 天下大乱に備えてでしょ...

武田信玄と天海:天海は比叡山が織田信長により焼き打ちされ、武田信玄のもとへ <天海コラム#6

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 武田信玄と天海:天海は比叡山が織田信長により焼き打ちされ、武田信玄のもとへ 武田信玄 肖像画:以前の太った画像は別人の説があり、 こちらが使われるようになりました。 2921年は、武田信玄の生誕500年です。 甲府市は、顕彰行事でにぎわっていることでしょう。 ・・・・・・・・・・・ 1571年 35歳の時、好学の士 天海は、 勉学をさらに続けるために比叡山への入山を試みました。 しかし、 比叡山が織田信長により焼き打ちされ 、果たせませんでした。   天海は、 明智光秀 の世話で、比叡山の学僧らと共に、 武田信玄の元に身を寄せます。 ※天海も信玄も天台宗です。 武田信玄は、戦争嫌いで、書物好きの文人でした。 民政を重んじた徳政の人でした。 このころ武田は、天下一の有力者でした。 天海は、武田信玄のところで、天台宗について講義したりしました。 武田信玄は、天海より15歳年上で、天台宗の権大僧正(ごんだいそうじょう。大僧正の次)でした。 三方ヶ原の戦い <浜松 徳川家康は、三方ヶ原の戦いで武田信玄に破れました。 しかし、以降 30歳年上の武田信玄を、心酔します。 #1  天海僧正の養生訓。健康法。勤行歩く粗食学習    <天海コラム#1  #2  天海は薬草にも通じていたので、家康の深い信任を得た  #3  天海は、織田信長による比叡山焼き打ちを逃れ、武田信玄の元へ。<天海コラム#3 #4  江戸を守る5寺社は、天海と川越が関係    <天海コラム#4 #5  天海は「家康=北極星」により東照宮信仰を確立   <天海コラム#5 #6  武田信玄と天海:天海は比叡山が織田信長により焼き打ちされ、武田信玄のもとへ<天海コラム#6

天海 ビジュアル

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 生没年グラフ    天海  徳川家康  武田信玄  織田信長  豊臣秀吉 江戸を守る川越関連の人物、寺社 川越 喜多院の天海像 日光陽明門上の北極星と囲む無数の星 天海の足跡地図     Make my own map 天海肖像画 @会津美里町公民館前 伊達政宗から天海僧正への書状(2011年7月  龍興寺にて)

小江戸川越観光親善大使 2021年11月2日 川越市

小江戸川越観光親善大使 Kawagoe City Tourism Ambassadors 番号 名前 活動 1 井上 浩 元「サツマイモ資料館」館長、「川越市文化財保護審議会」会長 2 小幡 堅 イラストレーター 3 金子 正之 「川越藩行列保存会」会長 4 小杉 亘 「川越を着物で歩こう会」会長 5 立原 雅夫 「川越市姉妹都市交流委員会」顧問、「川越商工会議所」会頭 6 寺田 勝廣 「川越藩火縄銃鉄砲隊保存会」代表 7 仁村 薫 元プロ野球選手 8 ベーリ・ドゥエル 大学名誉教授、「川越いも友の会」会長、「川越市外国籍市民会議」委員 9 龍神 由美 「川越今昔ものかたり」ほか著者、元川越市教育委員 10 阿里耶 シンガーソングライター 11 お掃除ユニット 川越CLEAR'S 川越発アイドルグループ、川越クリーンパートナー 12 「英語の通じる街」実行委員会 国際観光都市化のための体制と機会づくりの支援 13 速水 けんたろう NHK Eテレ「おかあさんといっしょ」8代目うたのおにいさん 14 古今亭 志ん五 落語家 15 桑原 政則 「NPO法人武蔵観研」会長 最終更新日:2021年11月2日  「小江戸川越」を全国へPRしていただくため、川越市のイメージアップのために活動している民間団体及び市民の方を「小江戸川越観光親善大使」として委嘱しています。   川越市 訂正:敬称(「さん」)を略しました。