河越重頼。源頼朝の重臣で、娘は源義経の妻。12月5日没 <川越の先人
・不詳-1185年12月5日河越重頼
河越重頼は、源頼朝の重臣です。
河越重頼は、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵すると、
有力な家臣となります。
河越氏は、桓武平氏(かんむへいし)の流れをくむ秩父氏の一族です。
河越氏の先祖は、皇族で臣籍降下により、
武蔵国最大の勢力になります。
臣籍降下(しんせきこうか)は、
皇族が、平氏や源氏などの姓を与えられ
臣下に降りることです。
皇室の財政を守るためです。
桓武天皇は、100名余りの者に、
平氏姓をあたえて、臣籍降下を行ないます。
子孫は、身一つで現地に下り、 現地有力者の娘と結婚し、 妻の実家の経済力、政治力に依存して生活します。
河越氏は、川越に移り住み、地名から河越を名乗り活躍します。
(「河越」は江戸時代から「川越」になります。)
河越館 |
河越氏は河越館 (画像)に居を構えました。
河越重頼の妻は、比企尼(ひきのあま)の次女です。 源頼朝の嫡男 頼家の乳母です。
比企尼、比企尼の次女の母娘2代にわたって、源家の乳母です。
比企尼は源頼朝の乳母です。 河越重頼の妻は源頼朝の嫡男 頼家の乳母です。
乳母(めのと)は、時に、実母より権力のある強力な存在です。
源頼朝が挙兵した当初、河越重頼は、畠山重忠、江戸重長らと横須賀の衣笠城を攻略します。
頼朝は、川越の武蔵一帯を検地し、 広大な肥沃な平野であることから重要視します。
武蔵の国は武士の発祥の地でもあります。
このとき、頼朝は都幾川村の慈光寺に銅鐘を奉納しています。
源頼朝に重用された河越重頼は、
源頼朝の命令で
17歳の娘を源義経の妻にさしだします。
後年、源頼朝は、源義経と仲違いします。
すると、河越重頼は、義経の縁者ということで、 疑心暗鬼にかられた頼朝から、所領を没収され、 命までも奪われます。
河越重頼の墓は、川越の養寿院にあります。
河越重頼、源義経、京姫 供養塔墓所 【+2】
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