・1556年6月2日。埼玉県春日部市~1623年9月3日没。68歳。
呑龍(どんりゅう)は、春日部市で生まれました。
蓮馨寺(れんけいじ)の源誉存応(げんよぞんのう)が大本山・増上寺の法主(ほっす。宗門の最高指導者)の時に修行僧になりました。
源誉存応は、大本山・増上寺の第12代目法主(ほっす)です。
1590年、徳川家康が江戸城に入府するとき、徳川家を増上寺の檀家(信者)にしました。
呑龍上人も参席しています。
【※】増上寺 一部を東京タワーに
【※】徳川家の先祖 新田(にった)源氏
徳川家康が征夷大将軍となり江戸に幕府を開くと、自らの祖先が新田(にった)源氏であるとました。
新田義重(よししげ)を供養し、1613年に『大光院』(群馬県太田市)を建立しました。
その初代住職として呑龍上人を抜擢しました。
呑龍上人は、人助けに力をそそぎ、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で受け入れ、養育いたしました。
このため、「子育て呑龍さま」と呼ばれ、民衆から尊敬されました。
あるとき、役人数人が鶴殺しの犯人・源次兵衛(げんじべえ)をとらえにお寺にやってきました。
源次兵衛が語ります。
呑龍上人は、人助けに力をそそぎ、捨て子や貧しい人々の子供を弟子という名目で受け入れ、養育いたしました。
このため、「子育て呑龍さま」と呼ばれ、民衆から尊敬されました。
あるとき、役人数人が鶴殺しの犯人・源次兵衛(げんじべえ)をとらえにお寺にやってきました。
源次兵衛が語ります。
「父は、母が亡くなってから、男一人で私を育ててくれました。
長年の苦労で、病気になってしまいました。
なかなかよくならず、弱くなっていくばかりでした。
そんな時、鶴の生き血がよくきくと聞きました。
ここの鶴は、家康公がお放(はな)しになった特別の鶴なので、捕らえるのはおとがめとなっています。
それは知ってはいたのですが、やむにやまれず、鶴をとらえ、殺してしまいました」
呑龍は、10歳足らずの鶴殺しの源次兵衛(げんじべえ)をかくまい続けます。
そのため6年間も信州小諸などへと逃れます。
呑龍の罪を許すとの赦免状が2代徳川秀忠から送られました。
呑龍は大光院に復帰しました。
1923年江戸城に上がった呑龍上人は、六年間の苦労をねぎらう言葉をいただきました。
蓮馨寺(れんけいじ)では、正面の呑龍堂に、呑龍上人をまつり、毎月8日を「呑龍デー」という縁日にしています。
蓮馨寺(れんけいじ)での一番人気は呑龍です。
そのため6年間も信州小諸などへと逃れます。
呑龍の罪を許すとの赦免状が2代徳川秀忠から送られました。
呑龍は大光院に復帰しました。
1923年江戸城に上がった呑龍上人は、六年間の苦労をねぎらう言葉をいただきました。
蓮馨寺(れんけいじ)では、正面の呑龍堂に、呑龍上人をまつり、毎月8日を「呑龍デー」という縁日にしています。
蓮馨寺(れんけいじ)での一番人気は呑龍です。
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