僧は武装していた

武蔵坊弁慶は、七つ道具で武装していました。
平安末期には、有力な寺院には僧兵がいました。
宗教集団の武装は当たり前のことでした。
武蔵坊弁慶【画像】

たとえば、比叡山延暦寺の仏教集団は、朝廷に強訴(ごうそ、集団要求)するときは、日吉大社のみこしをかついで都に押しかけました。

昔は、寺と神社は同じ宗教団体が管理していました。
仏様が神様に変身したとして、仏様と神様は同じだと考えられていました。

ところで、
最澄や空海は、中国から宗教ばかりでなく、最先端の技術をもたらしました。
明治や終戦後に留学生がヨーロッパやアメリカから、最新の思想と技術を持ち帰ってきたようなものです。

油、しょうゆ、紙の製造方法や最新の彫刻技術、木版技術ももたらしました。
これらの技術の許認可権は、朝廷、武士でなく、寺社勢力がもっていました。

製造業者や商人は、これらの製造販売権を寺社に納めることにより、油座、紙座などの「座」の仲間になることを許されました。
関所でも通行料を取っていました。

日本の経済はお寺が握っていました。
無許可で油などを製造したりする違反者を、武力で制裁する手段が必要でした。
それが僧兵集団でした。

*弘法伝説は土木技術から
弘法大師(空海)は、温泉を発見したり、ため池や土手をつくったりして、各地で感謝されていますが、唐からの最新のかんがい技術を駆使したからでしょう。