新渡戸稲造の父は、南部藩主の命で青森県十和田湖の新田開発に打ち込みました。 青森県十和田湖も、岩手県盛岡市ももとは同じ南部藩でした。 南部藩が青森と岩手に分断されたのは、幕末の奥羽越列藩同盟(おううえつ れっぱんどうめい)に起因します。 南部藩は青森県、岩手県に分断 ◇ ◆ ◇ 幕末、長州は会津から痛い目にあわされました。 幕府の命令で京都の治安を担当した会津藩にねらわれ、1864年の蛤御門の戦いでは京から追い出されました。 会津藩配下の新撰組にもつけねらわれました。 1868年、体制が変わり、維新政府は東北諸藩に会津征討を命じました。 東北諸藩は会津を救うために嘆願書を出しました。 しかし却下されたので、 東北25藩と長岡藩など6藩は 奥羽越列藩同盟 を結成し闘いましたが、破れました。 のちに仙台藩と山形の米沢藩は戦いが不利と見るや、列藩の主導者でしたが、降伏しました。 南部藩は仙台・伊達藩への義理で加盟しただけなのに、会津藩と共に最大の被害者に仕立て上げられ、貧窮の道を歩まされました。 この戊辰戦争で会津を破った長州人は傲岸にも 「白河以北、一山百文」 と言い放ちました。 明治政府はトーホクを無視し続けました。 トーホクを飛び越えて北海道開拓に意欲を燃やしました。 トーホクを無視し朝鮮経営に乗り出しました。 さらに日本のトーホクではなく中国の東北の経営に乗り出しました。 政府がトーホクのためにしたことは、東北大学をつくっただけでした。 <* 原敬 は、トーホクを侮蔑嘲笑した薩長出身者への反発から号を 「一山」 と称しました。 設立が絶望的だった東北大学が日の目を見たのは、内務大臣だった原敬の尽力によるものでした。 > 南部藩...