寛永寺の根本中堂、現在のは喜多院から移築されたもの wikipedia:Kaneiji_Main_Temple.JPG |
上野の大地は、川越の喜多院からでは遠いからと1622年に2代秀忠から寄進されたものでした。
天海は寛永寺を将軍家の菩提寺(ぼだいじ、先祖代々の寺)にしました。
<* 6人の将軍が眠ることになります。増上寺に6人の将軍が眠っています。>
伊勢の津藩の藤堂高虎ら各大名も寄進をしました。
比叡山延暦寺は「延暦時代」に建てられました。
それに対抗して、「寛永時代」に建てたので寛永寺にしました。
政権の官寺として寛永寺は誕生しました。
なぜ、上野に桜?
また東叡山(とうえいざん)という喜多院の山号を寛永寺に譲りました。
東叡山は、東(関東)の比叡山のことで関東天台宗の総本山です。
今の上野公園も含む広大な敷地を保有していました。
江戸中期には東叡山の末寺は2000カ寺に及びました。
京都御所を仏教面では比叡山が守り、比叡山を神道面で日吉大社(ひよしたいしゃ)が守っています。
日吉大社は全国に3800以上ある日枝(ひえ)神社の総本社です。
本社は日吉、他は日枝(ひえ)と呼ばれます。
江戸では、寛永寺、神田神社が鬼門を封じ、増上寺、日枝神社が裏鬼門を封じることになりました。
浅草寺も鬼門帯に
1631年、天海は96歳にして家康の17回忌の導師をつとめました。
100歳の時にも日光山で法事をつとめています。
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