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遣唐使船の技術史は、
外国から学ばない「唯我独尊」、でした。
過去に盲従の「前例踏襲主義」
科学は普遍を求めます。
しかし、遣唐使船は、外からも、過去からも学びませんでした。
600年、日本ははじめて遣隋使を送りました。
都合5回隋(581年- 618年)に送りました。
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唐(618年ー907年)へは、弘法大師・空海のころまでに15回派遣しています。
よく遭難しました。
造船術と航海術を外から学ばなかったからでした。
船はタライのように底がたいらでした。
近海用の構造でした。
航路は占いで決めました。
すでに、6世紀ごろには、海洋と天文の知識のあるアラビア人が、
中国に姿をあらわし、季節風も発見していました。
中国、アラビアの造船術と航海術は、朝鮮半島にまで及んでいました。
しかし、日本は学びませんでした。
遣唐使船は4艘(そう)よりなり、
1艘(そう)に100人前後が乗りました。
よく沈むので、この船に乗る人々は
死出の旅を
覚悟しました。
◇ ◇ ◇
夏には風は唐から日本へ吹きます。
遣唐使船は、あろうことか、この夏の
逆風の季節に出発しました。
好んで遭難に行くようなものでした。
◇ ◇ ◇
804年、31歳の空海は、第1船に乗りました。
九州から長江(揚子江)までふつうは10日で着きます。
空海の船は
34日間も
大洋をさまよいました。
第3船と第4戦は、海没、行方不明となりました。
<* 第2船には最澄が乗っていました。>
航路は、海外の機械技術を無視し、
陰陽師(おんみょうじ)などの占いに頼っていました。
占いではだめだとなったのは、
空海から900年もたってからでした。
【cf.】司馬遼太郎『空海の風景』