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荻上チキ「沖縄おすすめスポット」 音声。2014/7

荻上チキ 「沖縄おすすめスポット」(探究モード)  【音声 108+】 2014年07月29日(火) この夏、おすすめ!セッション流'沖縄の歩き方'! ・ステーキハウス88 辻本本店→沖縄県那覇市辻2丁目8−21 ・ジャッキー・ステーキハウス→沖縄県那覇市西1−7−3 ・エメラルド→沖縄県中頭郡北中城村島袋311   ・マストな場所(何をおいても):平和祈念公園(糸満市)と、その中心にある「平和の礎(いしじ)」。 ・島唄クラブ:場所は、那覇市・東町4-6。 ・食事:ミッキー。「大衆食堂」は沖縄の華。 ・ライブ&沖縄料理「ライブハウス・島唄~知名定男・ネーネーズの店」は、 那覇市の国際通り沿い、牧志1-2-31おきなわ屋・本社ビル3階。 ・伊江島の平和資料館「ヌチドゥ・タカラの家」。 ・沖縄県・糸満市・伊敷の轟壕(とどろきごう)。 ・「平和の礎(いしじ)」と「沖縄県・平和祈念資料館」 糸満市・摩文仁(まぶに)444番地。 ・金武町にある「ぎんばる食堂」。ここは国道329号沿いにある店で 沖縄の素朴な定食屋です。 ・恩納村の瀬良垣にある「花村そば」もオススメ。 ソーキと三枚肉が同時に食べられるのも魅力で、素朴な昔ながらの 出汁の本当に美味しい「沖縄そば」が食べられます。 ・那覇の街中では松山にある「和牛のたんや」がオススメ。 ・久茂地にある「おでん専門おふくろ」という店。 そのおでんが食べ放題、しかも島酒が飲み放題。 ・那覇のスージぐゎー(路地) ※那覇市の国際通りから一本裏道を行くと・・・。 ・那覇市の壺屋・石巻通り ・旧与那原駅舎 那覇からバスで20分。戦前の沖縄の鉄道をしのぶ場所です。 おかず、Aランチ、ちゃんぽん、かつ丼を堪能してください。

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認知症ねっと e-65 認知症 NHK   認知症の7割を占めるのがアルツハイマー病 ばあちゃんの世界① 認知症   ばあちゃんの世界② 認知症 くもん学習センター:認知症 ほのぼの研究所 大武美保子 アルツハイマー 海馬 前頭葉

金閣寺の3つの窓

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金閣寺 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 丸窓。寺のつくり。 /* 3階は、丸みを帯びた窓です。 お寺の建物 のつくりです。 足利義満は、僧であり、将軍でもありました。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 引き戸。武士の建物。 /*  2階には、 武士の建物 のつくりが見られます。 内と外を仕切るのは、引き戸です。 あつかいやすくて場所をとらない引き戸ので、機能重視の武士の家で使われました。 ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ しとみ戸。貴族の建物。 /* 金閣寺の1階は、 貴族の建物 でした。 部屋に光や風を取りこむためのしとみ戸があります。 しとみ戸は、貴族の建物で使われていました。 ここでは  貴族は、僧よりも武士よりも下に 置かれていました。 臨済宗相国寺派 金閣寺 金閣寺  【2+】 鹿苑寺 1    鹿苑寺 2 鹿苑寺 3 鹿苑寺 4 鹿苑寺 5 鹿苑寺 6 * http://plaza.rakuten.co.jp/yohgo/diary/200910180000/ http://blogs.yahoo.co.jp/yamajikaze1/5008749.html http://www.e-kyoto.net/special2/551

くらしと政治④ 平和主義と世界の中の日本

くらしと政治④ 平和主義と世界の中の日本 scene 01 日本は今何をなすべきか 今日は日本国憲法三つ目の柱、「平和主義」についてです。日本は太平洋戦争で大きな犠牲(ぎせい)をはらいました。その体験から、日本国憲法の前文には、二度と戦争を起こさないという平和への決意が記されています。また憲法第9条では、外国との争いを武力で解決しないこと、そのための陸海空軍などの戦力を持たないことを定めています。平和主義をかかげた日本が今、世界の中で何をなすべきか。まずは、世界の平和と安全の実現のために努力している世界的な組織、「国際連合」=国連について、見てみましょう。 オープニング scene 02 平和と安全のための国際連合 世界平和のために活動する組織、国連。現在、190か国以上の国々が加盟しています。国連は、第二次世界大戦が終わった1945年に、世界の51か国が集まり、発足。一つの国だけでは解決できないさまざまな問題に、各国が協力して取り組んできました。 オープニング scene 03 国連のさまざまな機関 国連には、問題解決のためのさまざまな専門機関があります。たとえばユニセフ(国連児童基金)。戦争や災害、飢(う)えに苦しむ子どもたちへの救援(きゅうえん)活動を行う機関です。WHO(世界保健機関)は、伝染病の予防など人々の健康を守るための活動を行っています。日本も太平洋戦争のあと食料が不足し、学校給食など15年間にわたってユニセフから援助を受けました。2011年の東日本大震災でも、被災者(ひさいしゃ)の心のケアなどの援助を受けています。 オープニング scene 04 ドキリ★国連の一員として世界平和に貢献する 国連がさまざまな活動をするための資金は、各国が分担して出します。日本はアメリカに次いで二番目。全体の10%あまりを負担しています。また、世界各地で起こる災害や紛争(ふんそう)地域に対しても、日本は積極的に救援(きゅうえん)活動を行っています。国同士が助け合う国連の活動。平和主義をかかげる日本だからこそ、世界の平和に貢献(こうけん)することが求められています。 オープニング scene 05 世界のための援助活動の形 たとえば100円をユニセフに募金(ぼきん)すれば、ポリオワクチンを8人の子どもに接種することができます。わた...

くらしと政治③ 基本的人権と裁判所

くらしと政治③ 基本的人権と裁判所 scene 01 「基本的人権の尊重」 前回から国の政治の仕組みを見てきました。そして、国の在り方を定めた最も重要な決まりである「憲法」には、三つの大きな柱があることを学びました。今回は、その柱の二つ目、「基本的人権の尊重」について見ていきます。基本的人権とは、「自由」や「平等」など、だれもが持っている権利です。そして憲法によって保障されています。 オープニング scene 02 ドキリ★憲法は国民全員に基本的人権を保障 基本的人権は、国民が生まれながらにして持っている権利です。たとえば、住む場所や職業を自由に選ぶことができる権利。自分の意見を自由に述べることができる権利。法のもとで平等にあつかわれる権利、などです。日本国憲法では、基本的人権を国民全員が持ち、だれもうばうことができない権利であることを保障しています。 オープニング scene 03 憲法で保障された権利がおかされたら? わたしたちは憲法で保障されたいろいろな権利を持っています。しかし、この大切な権利がもしおかされたら大変です。また、権利どうしがぶつかってトラブルになることもあるかもしれません。そんなときたよりになるのが「裁判所」です。次は、裁判所について見てみましょう。 オープニング scene 04 法律に基づいて国民の権利を守る裁判所 わたしたちが生活するなかで、とつぜん交通事故にあったり、お金をめぐるもめごとなどさまざまなトラブルに巻きこまれたりすることがあります。解決しようとしてもうまくいかない場合、どうすればいいのでしょうか。そのために、裁判所があります。裁判所では、法律に基づいて争いごとを解決したり、罪の有る無しを判断したりして、国民の権利を守ります。 オープニング scene 05 刑事裁判と民事裁判 裁判には大きく二つの種類があります。「刑事(けいじ)裁判」と「民事裁判」です。刑事裁判は、人を傷つける、物をうばうなどの犯罪をあつかいます。法廷(ほうてい)では裁判官のほかに被告人(ひこくにん)、弁護人、検察官が出席します。被告人は罪を犯したと疑われうったえられた人。弁護人は被告人の言い分を聞きその立場を守ります。検察官は裁判官に証拠(しょうこ)を示して被告人の処罰(しょばつ)を求めます。一方、民事裁判は、お金の...

くらしと政治② 国民主権と国会・内閣

くらしと政治② 国民主権と国会・内閣 scene 01 国民主権を実現する仕組み 前回はわたしたちに身近な市役所の仕事について勉強しました。今回からは国の政治の仕組みについて考えます。そこで大切なのが、「憲法」です。憲法は政治のあり方や仕組みなどを定めている、国の最高の決まりです。現在の日本国憲法には大きく三つの柱があります。国民主権、基本的人権の尊重、そして平和主義。3回に分けて、この憲法の3本の柱について見ていきましょう。まず、国民主権。国民が主役となって国の政治を動かしていくという考え方です。国民主権を実現するために日本にはどんな政治の仕組みがあるのか。その一つが、「国会」です。 オープニング scene 02 国民の選挙で選ばれる国会議員 東京都千代田区にある国会議事堂。国会は、この場所で開かれます。国会は主に、法律をつくるための話し合いの場で、多数決により物事を決めます。「国会議員」は、国民の選挙によって選ばれます。満20歳(さい)以上の国民はみな、選挙で投票する権利「選挙権」を持っています。候補者は、どのような政治をめざすのか政策をうったえます。国民はそれを聞いて、どの候補者が自分の意見に近いか考え、自分が選びたいと思った候補者名や政党の名前を投票用紙に書き、投票します。選挙で選ばれた国会議員は、国民の代表として、国民の意思を尊重した仕事を行うのです。 オープニング scene 03 歴史にドキリ★豆知識 日本では明治時代の1890年に初めて選挙が行われました。25歳(さい)以上で、多額の税金、当時の15円以上を納めた男性だけに選挙権があたえられました。その結果、選挙権を持てたのは、全人口の100人に1人くらいでした。 オープニング scene 04 選挙で選ばれた国会議員が政治を進める 国会は衆議院と参議院に分かれていて、定員は、衆議院が480人、参議院が242人です。任期は、衆議院で4年、参議院で6年です。衆議院は解散がありますが、参議院はありません。二つの議院で話し合うことで、政治の方向を慎重(しんちょう)に決めていく仕組みです。選挙で選ばれた国会議員が慎重に政治を進める。こうした仕組みが、国民主権を実現させるのです。 オープニング scene 05 法律をつくる大切な仕事 みんなが読む本や、食べものや、身に...

くらしと政治① わたしたちのくらしと行政

くらしと政治① わたしたちのくらしと行政 scene 01 安心してくらしていける町づくり ここは、中村獅童(なかむら・しどう)歴史研究所。所長の中村獅童さんが、ゴミの分別をしています。ところで、このゴミはだれが回収してくれるか知っていますか。小さい子どもからお年寄りまで、わたしたちが安心してくらしていける町づくりは、だれがやっているのでしょうか。みんなが幸せに生活していくために必要な、政治や社会のさまざまなことがらについて学んでいきましょう。『歴史にドキリ・特別編 くらしと政治』。まずは、わたしたちの身近な「政治」から見ていきます。 オープニング scene 02 役所の仕事「行政」 わたしたちが安心してくらせる町づくりを行っているのは、市や町などにある役所です。その役所の仕事を「行政」といいます。神奈川県厚木(あつぎ)市役所でも、市民のために多くの仕事を行っています。市民課は、引っこしてきた人や新しく生まれた子どもの登録などが仕事です。ゴミの処理は環境(かんきょう)事業課の担当。火災や救急に備える消防署は、24時間体制で厚木市民の安全を守ります。危機管理課は地震(じしん)などの大きな災害に備えています。厚木市では、2011年に起きた東日本大震災を受け、防災対策をより強化しました。 オープニング scene 03 ドキリ★どんなときも安心して過ごせるように たとえば、災害時に市民を安全な場所に誘導(ゆうどう)したり、毛布や食料の配布場所を伝えたりする防災行政無線。厚木市役所では2012年に、無線が聞こえづらい地区を洗い出し、新たに10基設置しました。ガス、水道、電気が止まってしまったときの食料の確保についても見直し、25,000人分の食料や毛布を保管しています。さらに、家に帰る交通手段がなくなってしまった人たちが一時的に避難(ひなん)できる場所を新たに設置しました。役所が行う仕事、「行政」。わたしたちがどんなときも安心して過ごせるように、役所はさまざまな対策をすすめています。 オープニング scene 04 行政が使うお金はどこから? 行政が使うお金はいったいどこから出ているのでしょうか。ヒントは、買い物をしたときのレシート。そこには「消費税」の文字があります。そう、行政にかかる費用は、「税金」でまかなわれています。みんながお金を出...

第41回 戦争 そして戦後

第41回  戦争 そして戦後 ■ scene 01 明治以降の激動の時代 中村獅童(なかむら・しどう)歴史研究所では、日本の歴史に名を残した人々の業績やその思いを研究してきました。 古代、占(うらな)いで国を治めた卑弥呼(ひみこ)から、明治の小説家・夏目漱石まで、すばらしい才能と懸命(けんめい)な努力をした人ばかりでした。 『歴史にドキリ』。 今回は、明治以降の激動の時代を見ることにしましょう。 ■ scene 02 外国との戦争を経験していく日本 明治時代、「富国強兵」をかかげた日本は、やがて外国との大きな戦争を経験します。 1894年には清(しん)、 今の中国と、 1904年にはロシア と戦争し、ともに勝利してアジアの強国となりました。 しかし、昭和に入ると、世界中が不景気になり、都市では失業者が増加。 農村では不作が続き、経済は停滞(ていたい)します。 日本はこれを打開しようと考え、中国の東北部に満州国(まんしゅうこく)をつくります。 そして、広大な土地と豊かな資源を求め、中国各地を武力で次々と占領(せんりょう)。 日中戦争となりました。 ■ scene 03 すべての国民を巻きこんだ太平洋戦争 日本はさらに、石油や鉄などを求めて東南アジアや太平洋の島々にも軍隊を進めます。 この動きを警戒(けいかい)したアメリカやイギリスなどは、石油の輸出を禁止するといった制裁を日本に加えました。 これに反発した日本は、1941年、ハワイにあるアメリカ軍の基地を爆撃(ばくげき)。 太平洋戦争が始まりました。 日本では男の人が次々に戦場に送り出され、残った女性たちも、国を守るためにと訓練を重ねました。 武器を作る工場で働く子どもたち。 すべての国民が戦争のうずの中に巻きこまれていったのです。 ■ scene 04 ドキリ★15年間、戦争を続け多くの犠牲をはらった アメリカを中心とする連合軍は、圧倒(あっとう)的な軍事力で日本軍を各地で破り、やがて日本本土への空襲(くうしゅう)を開始します。 その空襲から子どもたちを守るために、安全な地方に移動させる「疎開(そかい)」も行われました。 勉強以外に農作業も行うなど、きびしい毎日。 親と遠くはなれた生活は、さびしくつらいものでした。 そして、1945年8月6日...

第40回 夏目漱石・樋口一葉~明治時代の文学~

第40回  夏目漱石・樋口一葉~明治時代の文学~ ■ scene 01 『吾輩は猫である』の作者 夏目漱石は、大学の教師を辞めて新聞社に転職し、本格的に小説家としての歩みを始めました。 『吾輩(わがはい)は猫(ねこ)である』、『坊(ぼ)っちゃん』などの作者です。 ■ scene 02 日本を代表する小説家 夏目漱石は、今から100年ほど前に活躍(かつやく)した、日本を代表する小説家です。 大学で英文学を学んだ漱石は、卒業後、中学校の英語教師として愛媛県松山市に赴任(ふにん)します。 このころ、漱石は松山出身の俳人・正岡子規と交流を深めます。 子規から俳句を習うなど大きな影響(えいきょう)を受けた漱石。 この出会いは、小説家・夏目漱石誕生のきっかけになりました。 ■ scene 03 イギリス留学を機に 1900年、漱石は、国からの要請(ようせい)でイギリスのロンドンに留学します。 英文学の研究に没頭(ぼっとう)する漱石でしたが、一方で、明治維新(いしん)以来、 西洋のまねばかりしている日本に疑問を 持つようになります。 「日本は真に目が醒(さ)めねばダメだ」(当時の日記より)。 うわべだけでなく、日本人としてどうあるべきか。 留学は、漱石にとって、日本を、そして自分を見つめ直す機会になります。 ■ scene 04 一躍ベストセラー作家に 帰国後、漱石は大学で英文学を教えるかたわら、小説を書き始めます。 漱石の初めての作品、『吾輩は猫である』。 猫の視点で、当時の日本人の文化や暮らしをユーモラスに風刺(ふうし)をこめてえがき、大評判になりました。 その冒頭(ぼうとう)―― 「吾輩は猫である。 名前はまだ無い。 どこで生まれたか頓(とん)と見当がつかぬ…」。 さらにその翌年、松山での教師体験をもとにした『坊(ぼ)っちゃん』もヒットし、漱石は一躍(いちやく)、ベストセラー作家となります。 ■ scene 05 「いかに生きるか」という苦悩をえがく 40歳(さい)のとき、漱石は勤めていた大学を辞めて新聞社に転職。 本格的に小説家としてデビューします。 「 何か書かないと生きている気がしない のである」。 その後も漱石は、『三四郎』、『それから』、『心』など次々と作品を発表します。 これ...

第39回 田中正造・平塚らいてう~市民運動の高まり~

第39回  田中正造・平塚らいてう(らいちょう)~市民運動の高まり~ ■ scene 01 女性が自由に生きられる世の中に 「もっと自分を高めて可能性を広げたい」。平塚らいてう(らいちょう)は、大学を卒業してからも、文学や英語を学びながら小説を書いていました。 勉強したことや才能を生かしたいと思ったのです。 しかし、「男は仕事、女は家庭」という当時の世の中ではなかなか簡単にはいきません。 らいてうの時代は大学で学ぶ女性が増え、女性の仕事も増えつつありました。 それなのに、「女は家庭」など男女差別があったのです。 らいてうは、女性が自由に生きられる、そんな世の中にしたいと考えました。 ■  scene 02 「良妻賢母」を期待された時代 平塚らいてうは、明治時代の後半から昭和にかけて、女性の地位向上のために力をつくした人物です。 明治時代、日本では女性が社会に出て活躍(かつやく)できる場所はほとんどありませんでした。 当時の女性たちは「良妻賢母(りょうさいけんぼ)」、つまり、「良き妻、かしこい母」として、子どもを産み育て、家を守ることを期待されたのです。 そんな教育が苦痛だったらいてう、女学校時代には、仲間たちと“海賊(かいぞく)組”と名乗り、授業をぬけ出したこともありました。 大学を卒業したあとも、女性が社会で活躍できないことに不満をつのらせていきます。 ■ scene 03 「元始、女性は実に太陽であった」 1911年、らいてうは大学時代の友人たちと、女性が自由に意見を述べられる場を女性だけでつくろうと決心します。 そして発表されたのが、文芸雑誌『青鞜(せいとう)』です。 らいてうは、その中でこう語っています。 「元始(げんし)、女性は実に太陽であった。今、女性は月である」。 女性は本来、自ら光を放つ太陽のような存在であるのに、今はまるで月のように他人に依存(いそん)している。 さらに、「天才は男性にあらず、女性にあらず」。 天才、つまり才能は、男女の性別には関係ない。 女性もそれぞれの才能を発揮するべきだと宣言したのです。 ■ scene 04 ドキリ★『青鞜(せいとう)』を作り、女性の自立をあとおしした 『青鞜』の反響(はんきょう)は大きく、らいてうのもとには共感した多くの女性が訪ねてきま...

第38回 北里柴三郎・野口英世~世界で活躍した日本人~

第38回  北里柴三郎・野口英世~世界で活躍した日本人~ ■ scene 01 “雷おやじ” 北里柴三郎 「伝染病から人類を守るためにがんばらないと!」。 細菌(さいきん)学者の北里柴三郎(きたさと・しばさぶろう)は、いろいろな伝染病を研究し、治療(ちりょう)法も発見しました。 研究のこととなるとついカーッとなってしまう北里柴三郎を、弟子たちは「ドンネル先生」、ドイツ語で“雷(かみなり)おやじ”とよびました。 ■ scene 02 「伝染病から人を守ることが私の使命」 明治時代には世界で活躍(かつやく)する日本人たちが登場し始めます。 北里柴三郎はその一人です。 150年ほど前、開国したばかりの日本に外国からコレラという伝染病が入ってきました。 コレラは日本中に広がり、多くの人の命をうばいました。 北里の生まれたのは今の熊本県小国町(おぐにまち)。 二人の弟もコレラで亡くなります。 この経験が彼(かれ)に医者になることを決意させたのです。 「伝染病から人を守ることが私の使命」と考えた北里は、役所に入り、研究者となります。 そして伝染病の研究で世界トップのドイツへ、国から派遣(はけん)されました。 ■ scene 03 ドキリ★破傷風の治療法を発見し世界的な学者に そこで彼(かれ)は、破傷風(はしょうふう)という病気の研究に取り組みます。 この病気は、傷口から入った破傷風菌(きん)が出す毒素が原因です。 治療(ちりょう)法を探していた北里は、その毒素を動物に注射してみました。 すると血液の中に、毒素を中和する成分が見つかったのです。 その成分を取り出して人に注射すると、病気が治りました。 北里が発見した世界初の治療法は「血清療法(けっせいりょうほう)」とよばれました。 北里の名前はヨーロッパ中に知れわたり、世界的な学者となりました。 ■ scene 04 日本初の伝染病研究所 留学を終え、帰国した北里が最初に取り組んだのが、伝染病専門の研究所をつくることでした。 国にその必要性をうったえますが、聞き入れられませんでした。 そんな彼(かれ)を支援(しえん)してくれたのが、友人の福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)です。 自らの土地を提供した福沢のおかげで、日本で初めての伝染病研究所が完成しました。 所...

第37回 渋沢栄一~近代化に尽くした人~

第37回  渋沢栄一~近代化に尽くした人~ ■ scene 01 日本の経済を元気に! 渋沢栄一が活躍(かつやく)した明治時代の日本は、外国に負けない国を作るため経済を発展させる必要がありました。 そこで渋沢は、政治家としてではなく民間の立場から、日本の経済を元気にしました。 今の平成の世にはたくさんの会社があります。 渋沢はもっと昔の明治時代に、この原点ともいえるたくさんの株式会社を作ったのです。 株式会社とは、主に自分の利益のために運営する個人経営とは異なり、みんなでお金を持ち寄ることで大きなお金を生み出し、そのお金を使って事業をするというものです。 ■ scene 02 農家に生まれ、幕府の家臣に 渋沢栄一は、幕末から昭和にかけて日本の経済をリードした人物です。 江戸時代の終わりごろ、渋沢は今の埼玉県の大きな農家に生まれました。 渋沢家は領主からたびたびお金を差し出すよう命じられていました。 ある日も、とつぜん五百両を要求されます。 ちゃんと年貢(ねんぐ)を納めているのに、そのうえ五百両とは。 自分たちが努力してためたお金を権力者が当たり前のように使うなんて納得できない。 渋沢はやがてふるさとをはなれ、大名・一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)に仕えました。 慶喜はその後、徳川15代目の将軍に就任し、渋沢は幕府の家臣となりました。 ■ scene 03 フランスで教わったこと そんな渋沢に大きな転機が訪れます。 パリ万博に江戸幕府の一団として派遣(はけん)されたのです。 近代化したフランスの街に渋沢はおどろきました。 この旅で渋沢は、元銀行家のフランス人、フリューリ・エラールと出会います。 そして、フランスの繁栄(はんえい)を支えるのは「株式会社」の仕組みだと教わります。 会社を作るときに人々が自分のお金を出し合い、会社がうまくいって利益が出たら、それをみんなで分け合うというものです。 権力者がお金を吸い上げて事業を行うのではなく、人々がお金を投資するこの仕組みを、渋沢は日本でも広めたいと考えます。 ■ scene 04 日本で初めての「銀行」を設立 そして帰国。 しかしそこにはおどろくべき事態が待っていました。 江戸幕府がたおされ、新しい時代が始まっていたのです。 渋沢も新しい経済の...

第36回 福沢諭吉~文明開化~

第36回  福沢諭吉~文明開化~ ■ scene 01 学問の大切さを説いた教育者 『天は人の上に人をつくらず 人の下に人をつくらず』。 これは、「人はみな平等である」という意味。 この言葉を説いた明治時代の教育者、福沢諭吉は、日本にいち早く西洋の文化や考え方を伝えました。 現在の一万円札にえがかれている肖像画(しょうぞうが)が、福沢諭吉です。 福沢諭吉は学問の大切さをみんなに説きました。 ■ scene 02 まず英語を学ぶ およそ150年前、福沢諭吉は西洋の文化や考え方を広く日本に伝えました。 開国とともに、日本には西洋の文化が一気に流れこんできました。 横浜や神戸などには外国人の姿が目立つようになります。 福沢諭吉は横浜を訪れた経験から、西洋文化を理解するには英語を学ぶことが大切だと気づきました。 そして、いち早く英語を勉強した諭吉に大きなチャンスが訪れます。 ■ scene 03 アメリカでの見聞 江戸幕府の咸臨丸(かんりんまる)で、アメリカに行くことができたのです。 諭吉はアメリカ西海岸の町、サンフランシスコを訪れました。 そこで、日本とはまったくちがう生活を目にします。 たとえば、男性が女性を大切にする“レディ・ファースト”という習慣に大きな衝撃(しょうげき)を受けました。 帰国後、「まるで日本とアベコベ」と本に記しています。 ■ scene 04 西洋の国から学んだこと アメリカへ行った翌年、諭吉はヨーロッパに行く使節団にも加わり、イギリスなどいろいろな国を見て回りました。 イギリスの議会を見学したときのおどろきをこう書きのこしています。 「対立する二つの政党が政治のことで喧嘩(けんか)をしている。 なのに、議会が終わると、同じテーブルで酒をくみかわし、食事をしている」。 議会では自分の考えをぶつけあい、議論が終われば仲間としてつきあう。 このように、意見の異なる人たちを尊重する精神を、諭吉は西洋の国から学びました。 ■ scene 05 ドキリ★『西洋事情』で西洋の文化や考え方を広めた 帰国後、諭吉は『西洋事情』を出版。 自分の目で見た西洋の様子を、10巻にわたり、くわしく記しました。 この本には、政治や議会など国の基本となる仕組みをはじめ、学校や新聞、病院といった...

第35回 陸奥宗光・小村寿太郎~条約改正への道のり~

第35回  陸奥宗光・小村寿太郎~条約改正への道のり~ scene 01 陸奥宗光に認められて 小村寿太郎は、九州の飫肥藩(おびはん)という小さな藩(今の宮崎県の一部)の出身です。 倒幕(とうばく)運動の中心だった薩摩(さつま)藩や長州(ちょうしゅう)藩と比べると、当時は目立たない藩でした。 そんな小村が政治の道に入ったきっかけは、外務大臣の陸奥宗光が小村の能力を認めたからでした。 その陸奥宗光は、幕末に日本がアメリカやヨーロッパから結ばされた不平等条約の改正にいどみました。 ■ scene 02 不平等条約「治外法権」 陸奥宗光は不平等条約「治外法権」の撤廃(てっぱい)に活躍(かつやく)した人物です。 幕末、紀州藩出身の陸奥は、江戸で坂本龍馬とともに海外との貿易を手がけました。 頭脳派で交渉(こうしょう)力に長けた陸奥を、龍馬は「刀無しで生きていけるのはおれと陸奥だけだ」と絶賛したといいます。 当時、鎖国(さこく)をやめた日本は外国との不平等条約に苦しんでいました。 その一つが、治外法権。 外国人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁けないというものです。 日本は多くの国々から、こうした不平等な条約をおしつけられていました。 ■ scene 03 ノルマントン号事件 明治時代になっても不平等条約は続き、あるとき、陸奥のふるさと和歌山県沖(おき)で大事件が起こります。 あらしでイギリス船ノルマントン号が沈没(ちんぼつ)。 イギリス人乗組員は脱出(だっしゅつ)しましたが、日本人の乗客25人は全員見捨てられ、亡くなりました。 事件の裁判を担当したのは日本人ではなく、イギリス人判事でした。 治外法権のためです。 救助の義務を果たさなかったにもかかわらず、イギリス人乗組員のほとんどが「無罪」となります。 この事件を受け、名だたる政治家たちが不平等条約の改正にいどみましたが、かないませんでした。 ■ scene 04 大国イギリスを説得すれば ノルマントン号事件から6年後、陸奥は外務大臣になり、条約改正にいどみます。 イギリスは手ごわい。 しかし同時に、この大国さえ説得できればほかの国との交渉(こうしょう)もやりやすくなるにちがいない。 陸奥は世界情勢に目を向けます。 当時、世界各地に勢力を広げていたイギ...

第34回 伊藤博文~明治の国づくり(帝国憲法)~

第34回  伊藤博文~明治の国づくり(帝国憲法)~ ■ scene 01 自由に政治に参加する権利を! 板垣退助は明治政府の役人でしたが、政府の職を辞し、「自由民権」について日本各地を演説して回りました。 「国民はみな、自由に政治に参加する権利を持っている。 国民を政治に参加させろ!」。 自由民権運動は全国に広まり、はやりの歌ができるほどの人気になりました。 「♪オッペケペー オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポー 天地の真理がわからない 心に自由の種をまけ オッペケペー オッペケペー…」。 楽しそうですが、これは西洋のまねばかりしている政府の役人たちを批判している歌なのです。 ■ scene 02 政府に対して高まっていた不満 板垣退助は、明治政府に議会を開くことなどを求めた自由民権運動の指導者です。 土佐藩(とさはん)、今の高知県出身の板垣は、倒幕(とうばく)の功績により政府の重要な役職に就いていました。 明治時代、国の政治を行っていたのは、江戸幕府をたおした長州(ちょうしゅう)や薩摩(さつま)など一部の藩の出身者たちでした。 また明治政府は、武士階級が支配してきた「藩」を廃止(はいし)。 代わりに「府」や「県」を置き、政府が任命した役人を派遣(はけん)しました。 その結果、多くの武士たちが仕事も収入も失い、政府への不満を高めていきました。 ■ scene 03 国民が政治に参加する権利 こうしたなか、板垣は政府をはなれ、民間の立場から政治を変えようと行動を起こします。 板垣は、「日本も欧米(おうべい)の国々のように議会を開き、国民の意見によって政治を行うべきだ」とうったえます。 そして、演説会や新聞などを通してこの考えを広める「自由民権運動」を始めました。 板垣の考えはやがて多くの国民に広がり、活発な議論を巻き起こしました。 ■ scene 04 ドキリ★板垣たちによって自由民権運動が広まった ある日。演説を終えた板垣は暴漢におそわれます。 板垣は重傷を負いながらも、「板垣死すとも自由は死せず」と、自らの覚悟(かくご)を語ったと伝えられています。 板垣たちによって、国民が政治に参加することを求める自由民権運動が広まりました。 ■ scene 05 国会開設を求める声 板垣の自由...

第33回 板垣退助・大隈重信~明治の国づくり(議会政治)~

第33回  板垣退助・大隈重信~明治の国づくり(議会政治)~ ■ scene 01 自由に政治に参加する権利を! 板垣退助は明治政府の役人でしたが、政府の職を辞し、「自由民権」について日本各地を演説して回りました。 「国民はみな、自由に政治に参加する権利を持っている。国民を政治に参加させろ!」。 自由民権運動は全国に広まり、はやりの歌ができるほどの人気になりました。 「♪オッペケペー オッペケペー オッペケペッポー ペッポッポー 天地の真理がわからない 心に自由の種をまけ オッペケペー オッペケペー…」。 楽しそうですが、これは西洋のまねばかりしている政府の役人たちを批判している歌なのです。 ■ scene 02 政府に対して高まっていた不満 板垣退助は、明治政府に議会を開くことなどを求めた自由民権運動の指導者です。 土佐藩(とさはん)、今の高知県出身の板垣は、倒幕(とうばく)の功績により政府の重要な役職に就いていました。 明治時代、国の政治を行っていたのは、江戸幕府をたおした長州(ちょうしゅう)や薩摩(さつま)など一部の藩の出身者たちでした。 また明治政府は、武士階級が支配してきた「藩」を廃止(はいし)。 代わりに「府」や「県」を置き、政府が任命した役人を派遣(はけん)しました。 その結果、多くの武士たちが仕事も収入も失い、政府への不満を高めていきました。 ■ scene 03 国民が政治に参加する権利 こうしたなか、板垣は政府をはなれ、民間の立場から政治を変えようと行動を起こします。 板垣は、「日本も欧米(おうべい)の国々のように議会を開き、国民の意見によって政治を行うべきだ」とうったえます。 そして、演説会や新聞などを通してこの考えを広める「自由民権運動」を始めました。 板垣の考えはやがて多くの国民に広がり、活発な議論を巻き起こしました。 ■ scene 04 ドキリ★板垣たちによって自由民権運動が広まった ある日。 演説を終えた板垣は暴漢におそわれます。 板垣は重傷を負いながらも、「板垣死すとも自由は死せず」と、自らの覚悟(かくご)を語ったと伝えられています。 板垣たちによって、国民が政治に参加することを求める自由民権運動が広まりました。 ■ scene 05 国会開設を求める声 ...

第32回 大久保利通~明治の国づくり(富国強兵)~

第32回  大久保利通~明治の国づくり(富国強兵)~ ■ scene 01 強くて豊かな日本をつくりたい 外国に負けない強くて豊かな明治の世をつくりたい。 そのために、工場をつくったり、武士の特権を取り上げたりと、思い切った政策を推し進めた大久保利通。そのせいか、大久保のことを冷たい人間だと言う人もいました。 しかし、大久保利通の胸の中は、熱い情熱でいっぱいだったのです。 ■ scene 02 維新三傑の一人 大久保利通は、明治時代、外国に負けない強い日本をつくるために活躍(かつやく)した人物です。 今から180年ほど前、鹿児島県、当時の薩摩藩(さつまはん)の武士の家に生まれた大久保。 同じ藩の仲間に、西郷隆盛がいました。 大久保は西郷たちとともに江戸幕府をたおし、新たに明治時代が始まりました。 明治政府の中心人物となった大久保は、倒幕(とうばく)で活躍した西郷隆盛、木戸孝允(きど・たかよし)と並び、“維新三傑(いしんさんけつ)”と称(しょう)されます。 ■ scene 03 海外視察で受けたおどろき 新しい国づくりを進める大久保に、大きな転機が訪れます。 岩倉具視(いわくら・ともみ)を中心とする使節団の一員として、海外視察のため欧米(おうべい)にわたったのです。 大久保たちは、進んだ海外の情勢におどろきました。 大久保が友人に送った手紙が残っています。 「イギリスには町ごとに工場がある。 リバプールの造船所、マンチェスターの木綿工場、製鉄所…。 こうした多くの工場が、イギリスの強さの秘密だ」。 ■ scene 04 「これでは日本が勝てるはずがない」 当時、イギリスは“世界の工場”とよばれ、大規模な機械化でさまざまな製品が生み出されていました。 製鉄所の鉄鋼は世界中に輸出され、お菓子(かし)までもが機械で大量生産されていました。 大久保は思います。 「これでは日本が勝てるはずがない。 いち早く近代化し、技術力を高めなくては…」。 国を豊かにし、強い日本をつくる。 「富国強兵(ふこくきょうへい)」をめざしたのです。 ■ scene 05 ドキリ★欧米視察で衝撃を受け富国強兵を推し進めた 大久保たち政府は、国が運営する「官営工場」を各地につくりました。 その一つが、富岡製糸場です。 ...

第31回 西郷隆盛・木戸孝允~明治の国づくり(倒幕運動)~

第31回  西郷隆盛・木戸孝允~明治の国づくり(倒幕運動)~ ■ scene 01 強い日本をつくるために 現在の鹿児島県、薩摩藩(さつまはん)の武士であった西郷隆盛は、江戸幕府をたおして新しい政府をつくろうとしました。 なぜ幕府をたおすのか。 それは、強い日本をつくる必要があったからです。 1850年ごろの日本、外国から圧力を受けた江戸幕府は、国を開き、不平等な条約を結んでしまいました。 西郷たちは、強い外国と対等にわたりあうには、もっと日本を強くしなければならないと考えました。 そこで、薩摩藩と長州(ちょうしゅう)藩(現在の山口県)が、幕府をたおそうと立ち上がったのです。 ■ scene 02 幕府に開国をせまったアメリカ 今からおよそ150年前、西郷隆盛は、江戸幕府をたおして「明治」という新しい時代をつくりました。 明治時代が始まる15年前、4隻(せき)のアメリカの軍艦(ぐんかん)が、今の神奈川県横須賀市の沖合いにやってきました。 “黒船”です。 率いていたのはアメリカ合衆国の使者、マシュー・ペリー。 開国を求める大統領の手紙を持っていました。 ペリーは幕府に、港を開き貿易することをせまります。 アメリカの強い態度と黒船の武力をおそれた幕府は、二つの条約を結びました。 しかしそれは日本にとって不利な内容でした。 ■ scene 03 不平等な条約 その一つが、「治外法権(ちがいほうけん)」。 日本で外国人が罪を犯しても、日本の法律で裁くことができないというものです。 そしてもう一つが、「関税自主権(かんぜいじしゅけん)がない」こと。 物を輸入するときの税金をかける権利がなかったのです。 このような不平等な条約を、幕府は次々と結ばされてしまいます。 貿易が始まると、国内では物が不足したり、物価が上がったりして、人々の生活が苦しくなりました。 そのため、薩摩藩は外国との貿易に反対していました。 ■ scene 04 イギリスと戦った薩摩藩は 1863年、薩摩藩はイギリスともめごとを起こし、軍艦(ぐんかん)から砲撃(ほうげき)を受けます。 イギリスのはげしい攻撃(こうげき)に、薩摩藩は手も足も出ない有様でした。 この戦いのあと、西郷は考えを変えます。 外国と対等に付き合うには、強い日本に...

第30回 勝海舟~幕末の動乱(幕府側)~

第30回  勝海舟~幕末の動乱(幕府側)~ ■ scene 01 日本の未来をえがく 勝海舟は、江戸幕府の「軍艦奉行(ぐんかんぶぎょう)」という海軍の責任者を務めていました。 幕府の役人ですが、全国のいろいろな藩(はん)の人たちとつきあいがありました。 そういう人たちと日本の未来について語り合ったのです。 イギリスの公使パークスとも親交があり、外国人との人脈も大切にしました。 勝はアメリカのサンフランシスコにも船で行ったことがあります。 勝はどのように日本の未来をえがいていたのでしょうか。 ■ scene 02 海軍の創設を幕府に提案 勝海舟は、今から150年ほど前の幕末に活躍(かつやく)した、江戸幕府の役人です。 1853年、アメリカからペリーの艦隊(かんたい)が来航し、日本に開国を要求してきました。 国を開くべきか否か。 なやんだ幕府は、全国の大名から町人にいたるまではば広く意見を募集(ぼしゅう)しました。 蘭学(らんがく)を学び、西洋の進んだ知識を身に付けていた勝は、海軍の創設や西洋技術の導入を提案します。 これが注目され、勝は立身出世の道を進みます。 ■ scene 03 咸臨丸でアメリカへ そして勝は、1860年、幕府が派遣(はけん)する使節団に加わり、咸臨丸(かんりんまる)という船で太平洋を横断し、アメリカにわたります。 アメリカの近代的な町並みや進んだ産業におどろく勝。 何より、日本のように身分や家柄(いえがら)ではなく、選挙による公平で民主的な政治が行われていることに感心します。 ■ scene 04 新しい日本を担う若者を育てる アメリカから帰国して4年。 海軍の責任者になった勝は、神戸に海軍操練所(そうれんじょ)をつくります。 勝は、幕府の人間だけでなく、西洋の技術を学び新しい日本を担おうとする若者を、出身地や身分の分けへだてなく全国各地から集めました。 そのなかには、土佐出身の坂本龍馬のすがたもありました。 しかしそのころ、日本国内では開国か鎖国(さこく)かをめぐって各地ではげしい争いが起きていました。 混乱が続けばイギリスやフランスなど西洋の列強の介入(かいにゅう)を受け、日本は植民地になってしまう…。 ■ scene 05 ドキリ★幕府や藩のわくをこえた国のあり方...

第29回 坂本龍馬~幕末の動乱(倒幕側)~

第29回  坂本龍馬~幕末の動乱(倒幕側)~ ■ scene 01 長州藩と薩摩藩を結びつける 坂本龍馬は、土佐藩(とさはん)、今の高知県出身の武士です。 龍馬は日本で最初の商社といわれる『亀山社中(かめやましゃちゅう)』という組織をつくり、物を売り買いしていました。 そのころ、長州(ちょうしゅう)藩は銃(じゅう)をほしがっていました。 しかし、銃を手に入れるのはむずかしいことでした。 そこで龍馬が思いついたのが、仲の悪い長州藩と薩摩(さつま)藩を結びつける方法です。 ■ scene 02 開国により高まった幕府への不満 およそ150年前、幕末の時代に生きた坂本龍馬は、新しい日本をつくるために奔走(ほんそう)しました。 1853年にアメリカから黒船に乗ってやってきたペリーにより、日本は開国。 国内は混乱します。 外国との不平等な条約による物価の上昇(じょうしょう)などで生活は苦しくなり、幕府への不満が高まりました。 そして、江戸幕府を支えようとするグループと、幕府をたおして新しい国をつくろうとするグループが争うようになります。 ■ scene 03 幕府をたおす決心 坂本龍馬は、今の高知県、土佐藩の武士の家に生まれました。 龍馬も、混乱する日本をどうにかしなければと考える一人でした。 故郷の土佐を出た龍馬は、江戸や京都、長崎など各地を回り、さまざまな人に出会って見聞を広めます。 幕府の実力者、貿易で国を発展させようという学者…。 なかでも、幕府の役人・勝海舟(かつ・かいしゅう)との出会いは龍馬に大きな影響(えいきょう)をあたえます。 勝は龍馬に、西洋に負けない国づくりの必要性を説きます。 このころ龍馬が書いた手紙にある『日本を一度洗濯(せんたく)して新しい国をつくる』という言葉。 龍馬は、幕府をたおす決心をしたのです。 ■ scene 04 薩長同盟の立役者 龍馬が目をつけたのは、大きな力を持っていた薩摩藩と長州藩です。 この二つの藩が手を組めば、幕府に対抗(たいこう)できる力になります。 しかし薩摩藩と長州藩は倒幕(とうばく)をめぐって激しい対立をした過去がありました。 そこで龍馬は両藩の実力者、薩摩藩の西郷隆盛と、長州藩の桂小五郎(かつら・こごろう)に、ある取引を持ちかけます。 武器をほ...

第28回 ペリー~揺らぐ江戸幕府~

第28回  ペリー~揺らぐ江戸幕府~ ■ scene 01 江戸幕府にせまったアメリカ海軍司令官 アメリカ海軍の司令官マシュー・ペリーは、鎖国(さこく)をしていた日本に国を開かせるためにやってきました。 自分の言うことを聞かないとアメリカ軍のほこる黒船で日本をせめることになるかもしれない、となかばおどしたのです。 日本の人々は異国から来たペリーをどのように見ていたのでしょう。 ペリーの似顔絵をかいた当時の瓦版(かわらばん)を見ると、どれも天狗(てんぐ)のような顔をしています。 ペリーはどのようにして江戸幕府に国を開かせたのでしょうか。 ■ scene 02 日本を開国させる およそ160年前、マシュー・ペリーは、日本に開国をせまるため、アメリカからやってきました。 そのころ、アメリカは清(今の中国)との貿易を考えていました。 しかし中国へは、大西洋を横断し、アフリカの南を回って4か月くらいかかりました。 太平洋を横切れれば20日程度で中国に着きます。 そこで注目されたのが、燃料や水、食料の補給基地としての日本でした。 しかし、当時の日本は鎖国(さこく)をしていました。 アメリカの船は日本に近づくことができません。 「日本を開国させる」。 大統領から交渉(こうしょう)を任されたのが、海軍司令官のマシュー・ペリーでした。 ■ scene 03 アメリカ大統領の手紙を幕府に 1853年、ペリーは4隻(せき)の巨大な軍艦(ぐんかん)を率い、江戸湾(わん)の入り口、今の神奈川県の浦賀にやってきました。 ペリーはときおり軍艦の空砲(くうほう)を放ち、幕府に圧力をかけます。 アメリカと戦争になるのではないかと、江戸は大さわぎになりました。 幕府はまず、浦賀奉行所の役人を派遣します。 しかしペリーは、大統領の手紙を直接、幕府の高官に手わたすことを要求しました。 その強い態度におされ、幕府は上陸の許可をあたえます。 大統領の手紙を幕府の責任者にわたすことに成功したペリーは、1年後に要求の答えを受け取る約束をして、日本を立ち去りました。 ■ scene 04 ドキリ★ペリーによって幕府は国を開いた 翌年、再びペリーが来日。 今度は9隻(せき)の艦隊(かんたい)を率いています。 ペリーは、日本に改めて要求をつきつ...

第27回 大塩平八郎~庶民の反乱~

第27回  大塩平八郎~庶民の反乱~ ■ scene 01 “大阪に大塩あり” 大塩平八郎は、大阪の奉行所(ぶぎょうしょ)で働く、「与力(よりき)」という江戸幕府の役人でした。 十手を持って大阪の町を東へ西へかけめぐり、さまざまな事件を解決。 “大阪に大塩あり”と、その名を全国にとどろかせました。 しかし、大阪の町の役人には不正と腐敗(ふはい)がうずまいていました。 大塩は正義の与力として、敢然(かんぜん)と悪に立ち向かうのでした。 ■ scene 02 大阪町奉行所の与力 大塩平八郎は、江戸時代の終わりごろ、飢饉(ききん)のために苦しむ庶民(しょみん)のために立ち上がった人物です。 大塩は、大阪の町奉行所(ぶぎょうしょ)で働く「与力」という役人でした。 日々、大阪の町を見回り、犯罪捜査(そうさ)や犯人逮捕(たいほ)にあたっていました。 当時、経済の一大中心地であった大阪には、米や魚などさまざまな品物が集まり、多くの商人が活躍(かつやく)していました。 ■ scene 03 不正をにくむ正義漢 そのかげで、江戸幕府の役人は商人から賄賂(わいろ)を受け取り、たがいの癒着(ゆちゃく)が深まるなど、不正や腐敗(ふはい)が進んでいました。 大塩にもたびたび賄賂がおくられました。 しかし大塩は決して賄賂を受け取ることはなく、同僚(どうりょう)の与力たちに、「不正を許しているから、取り調べが進まないのだ!」と強くうったえました。 大塩は、不正をにくむ正義漢でした。 その後も、大塩は清廉潔白(せいれんけっぱく)な与力として数々の事件を解決し、汚職(おしょく)を摘発(てきはつ)するなど大活躍(かつやく)。 やがて、『大阪に大塩あり』とまでいわれるようになりました。 ■ scene 04 私塾で陽明学を教える さらに大塩は、幕府の高官がからむ大規模な汚職(おしょく)事件の捜査(そうさ)に乗り出します。 しかし、幕府の判断で3人の役人が処罰(しょばつ)されただけで、事件はうやむやになります。 与力の仕事に限界を感じた大塩は38歳(さい)で辞職。 その後、自ら開いた塾(じゅく)で、中国の明(みん)の時代におこった陽明学(ようめいがく)の研究と弟子の教育に専念しました。 大塩が特に大切にしていた陽明学の言葉があります。 ...

第26回 伊能忠敬~蘭学の発展~

第26回  伊能忠敬~蘭学の発展~ ■ scene 01 正確な地図を作るために 伊能忠敬は、江戸時代、50歳(さい)をこえた体で日本全国を歩きまわり、地図を作る旅を続けました。 忠敬が旅に出る前の、江戸時代の地図を見ると、たとえば北海道が不思議な形にえがかれています。 当時、正確な地図がなかったのです。 忠敬は正確な地図を作るために、風の日も、雪の日も、ひたすら歩き続けました…。 ■ scene 02 50歳で天文学を学ぶ 伊能忠敬は、江戸時代の後半、精密な日本地図を作った人物です。 今から200年ほど前、鎖国(さこく)が続く日本に新しい学問が流行します。 幕府に貿易を許されていたオランダからもたらされた「蘭学(らんがく)」です。 当時の千葉県で商人をしていた忠敬は、なかでも天文学に興味をいだきました。 50歳(さい)のとき、忠敬は決心します。 家業を息子にゆずり、江戸で天文学を学ぶことにしたのです。 忠敬は、江戸で幕府の天文学者・高橋至時(よしとき)に弟子入りします。 熱心に勉強する忠敬の姿に心打たれた至時。 忠敬を尊敬し、ともに研究に明け暮れました。 ■ scene 03 地球の大きさを知りたい 忠敬には壮大(そうだい)な夢がありました。 地球の大きさを知ることです。 そこで、日本のさまざまな場所で北極星を観測し、見える角度の差と距離(きょり)から、地球の大きさを計算しようと考えたのです。 そのためには、江戸から、今の北海道である蝦夷地(えぞち)までの広い範囲(はんい)で北極星を観測する必要がありました。 忠敬は、幕府がほしがっていた「蝦夷地の正確な地図」を作ることを名目に、測量の旅の許可をもらいます。 ■ scene 04 一歩一歩歩いて測量 1800年、55歳(さい)の忠敬率いる測量隊が江戸を出発。 長い地図作りの旅の幕開けでした。 測量には、田畑を測るのに使われていた方法を用いました。 「梵天(ぼんてん)」という目印を立て、そのあいだの距離(きょり)を、一歩一歩歩いて測ります。 そして方位磁石を細かく使って、正確な方位を導いていきます。 歩くことができないけわしい海岸は、船から海になわをわたして測量し、緻密(ちみつ)な線をえがきました。 旅の合間に北極星の観測も続け、地球の外...

第25回 杉田玄白・本居宣長~江戸時代の学問と教育~

第25回  杉田玄白・本居宣長~江戸時代の学問と教育~ ■ scene 01 『ターヘル・アナトミア』の翻訳 医者であり蘭学者(らんがくしゃ)でもあった杉田玄白は、仲間といっしょにオランダ語の解剖(かいぼう)書を翻訳(ほんやく)して『解体新書』を作りました。 その解剖書『ターヘル・アナトミア』という本には、人間の体の中の内臓や筋肉、骨格などがくわしくえがかれていて、玄白たちはおどろきました。 医者である玄白も、それまで体の中を見たことがなかったのです。 そうやって始めた翻訳は大変な作業でした。 辞書などなかったからです。 玄白たちはどのように翻訳を進めたのでしょうか。 ■ scene 02 解剖書『解体新書』の発行 今からおよそ240年前、杉田玄白は、人の体の解剖(かいぼう)書『解体新書』を発行しました。 そのもととなったのが、オランダ語で書かれた『ターヘル・アナトミア』という解剖書です。 この本は、オランダ人が長崎の出島に持ちこんだものです。 当時は出島を通して、ヨーロッパの進んだ知識や文化が入ってきました。 江戸で医者をしていた玄白が『ターヘル・アナトミア』を手にしたのは、39歳(さい)のときです。 中にえがかれている骨格や筋肉、内臓の図は、今までに学んだものとはちがっていました。 ■ scene 03 西洋医学の正確さにおどろく ある日、処刑(しょけい)された囚人(しゅうじん)の解剖(かいぼう)に立ち会う機会を得た玄白は、『ターヘル・アナトミア』にかかれている解剖図の正確さにおどろきました。 玄白はこのときの気持ちを書きのこしています。 「基本的な人の体の中も知らずに医者をしていたとは…、面目もなき次第…」。 当時の医者は、主に患者(かんじゃ)の様子を外から見て病気を判断し、薬を使って治していました。 そのため、体の中がどうなっているかという知識はあまりありませんでした。 ■ scene 04 困難をきわめた翻訳作業 玄白は仲間たちと『ターヘル・アナトミア』の翻訳(ほんやく)を開始します。 しかし辞書もなくオランダ語がわからないため、作業は困難をきわめました。 玄白は語ります。 「鼻は顔の中でフルヘッヘンドしたもの」という文章がありました。 しかしその「フルヘッヘンド」がわかりません。 ...

第24回 歌川広重~江戸時代のアート・浮世絵~

第24回  歌川広重~江戸時代のアート・浮世絵~ ■ scene 01 大人気シリーズ『東海道五十三次』 江戸時代の終わりごろの浮世絵(うきよえ)師、歌川広重。 広重のかいた『東海道五十三次』は、人々のあいだで大人気のシリーズになりました。 たとえば、箱根の急な山、ふもとに広がる芦ノ湖(あしのこ)の雄大(ゆうだい)な風景。 今の絵葉書のようなもので、『東海道五十三次』は人気を集めました。 広重以外にも浮世絵師がたくさんいました。 役者絵や力士絵など、今で言うアイドルのポスターや、野球・サッカー選手のカードのような人気でした。 そして浮世絵は、日本だけでなく海外の芸術にも大きな影響(えいきょう)をあたえました。 ■ scene 02 浮世絵は庶民の手軽な楽しみ 歌川広重は、およそ200年前に活躍(かつやく)した浮世絵師です。 広重のかいた『東海道五十三次』は、江戸時代、旅好きの人々のあいだで大人気となりました。 浮世絵は値段が安く、庶民(しょみん)が簡単に手に入れることができました。 安くできた理由は、同じものをたくさん作ることができたからです。 ■ scene 03 浮世絵のできるまで 浮世絵のできるまでを説明しましょう。 まず、浮世絵師が墨(すみ)で絵をかき、どこにどんな色を着けるか決めます。 次に、彫(ほ)り師が絵を板にはり、輪郭(りんかく)だけを残して彫ります。 色の部分は別の板に彫ります。 緑や赤など、ぬり色ごとに板を分けます。 最後に、すり師が、色ごとに分けて何度もすっていきます。 ずれないようにするのが、技でした。 武士や貴族のためにえがかれたそれまでの高価な絵とはちがい、浮世絵は大量に作られたため、安く売ることができたのです。 ■ scene 04 役者絵、美人画、相撲絵 では、どんな浮世絵があったのか見てみましょう。 江戸時代は、平和が続き、町人たちの生活は豊かになりました。 そんな町人たちの好むものが、浮世絵でえがかれました。 なかでも人気の高かったのが歌舞伎(かぶき)です。 役者をかいた浮世絵は飛ぶように売れました。 ほかにも、美しい女性をかいた「美人画」や、庶民(しょみん)の好きな相撲(すもう)も浮世絵になりました。 ■ scene 05 ドキリ★『東...

第23回 近松門左衛門~江戸時代の文化~

第23回  近松門左衛門~江戸時代の文化~ ■ scene 01 人形浄瑠璃の脚本家 武士から町人に身分を変え、夢だった脚本家(きゃくほんか)に転身した近松門左衛門。何の脚本かというと、人形浄瑠璃(じょうるり)といって、美しい人形が織り成す物語です。歴史上の人物などを主人公にした「時代物」のほか、実際に起きた事件などを題材に、町人の生き様や思いがぎゅっとつまった物語を、近松は手がけていくことになります。 ■ scene 02 “天下の台所”大阪 近松門左衛門は江戸時代に活躍(かつやく)した劇作家です。今から350年ほど前、徳川幕府のもと、戦のない平和な世が続いていました。物の流通が盛んになり、特に栄えたのが江戸と大阪です。“天下の台所”とよばれた大阪では、全国から集められた米や特産物が取り引きされました。経済的に豊かになった町の人々は思い思いの娯楽(ごらく)を楽しむようになります。特に人気を集めたのが人形浄瑠璃です。三味線と語りによる日本固有の人形劇で、歴史上の物語が多く上演されました。夢中で見る人々のなかに近松がいました。当時の身分は武士でした。 ■ scene 03 曽根崎で起きた心中事件 すっかり心をうばわれた近松。人形浄瑠璃の作家になる決意をし、武士の身分を捨てて転身します。 そして、あだ討ち劇などの「時代物」を多く手がけていきました。 そんな近松に大きな転機が訪れたのは51歳(さい)のとき。 大阪の曽根崎(そねざき)で恋人(こいびと)同士の男女が自ら命を絶つ心中(しんじゅう)事件が起こったのです。 町は事件の話題で持ちきり。 近松は亡くなった二人に強く心を動かされ、事件をもとに脚本(きゃくほん)を書くことにしました。 二人の思いに寄りそいながら脚色を加え、より深い人間ドラマに仕上げました。 事件から3週間で書き上げた作品、『曽根崎心中』です。 ■ scene 04 ドキリ★町人が主役の作品を多く手がけた 醤油(しょうゆ)店につとめる徳兵衛(とくべえ)と、恋人(こいびと)のお初。 二人は、たがいに別の人といっしょになる定めでした。 徳兵衛は友人にたのみこまれ、店のお金を貸します。 しかしそれをふみたおされ、ぬすみの罪まで着せられてしまいます。 ぬれぎぬは晴れず、いっしょにもなれない。傷つき追...

第22回 徳川家光~江戸幕府と大名~

第22回  徳川家光~江戸幕府と大名~ ■ 江戸幕府をもっと強くしたい! 全国の大名たちが幕府に刃(は)向かっていないかチェックを続ける徳川家光。 そんな 家光の秘密兵器が「武家諸法度(ぶけしょはっと)」 です。 武家諸法度は、大名がしてはいけないこと、しなければならないことを書いた法律のようなものです。 大名は1年おきに江戸に来て将軍のために働かなければいけない。 新しい城を築いてはいけない。 勝手に結婚(けっこん)してはいけない…。 なぜそこまで細かく定めるかというと、祖父である初代将軍の家康がつくった江戸幕府を、もっともっと強くしていくためでした。 ■ 少年時代のピンチを救ったのは… 徳川家光は、江戸幕府の力を固めた三代将軍です。 幼いころの名は、竹千代。 そのころ両親は、竹千代よりも弟の国松に愛情を注いでいました。 「国松を世つぎに」、そんな空気が流れ始めたといいます。 竹千代のピンチを救ったのが、江戸幕府を開いた祖父・徳川家康です。 孫たちに会いに来たときのこと。 家康は、「竹千代どの、こちらへ来なさい」と竹千代をていねいな言葉でよび寄せます。 しかし国松には、「おまえはそこにいろ」と一喝(いっかつ)。 みんなの前で竹千代を優先的にあつかうことで、将軍の座を約束 したのです。 ■ 「私は生まれながらの将軍である」 こうして家光は、20歳で三代将軍に就任。 祖父・家康が開いた幕府の力をさらに高めようと、大名たちにこう宣言します。 「私は生まれながらの将軍である。祖父や父の仲間だった大名もすべて家来としてあつかう」。 全国の大名をおさえる手段の一つが、武家諸法度。 父・秀忠の代につくられた、大名などを取りしまる法律です。 そこに家光は新たな項目(こうもく)を加えました。 「 参勤交代( さんきんこうたい)」です。 大名が1年おきに自分の領地と江戸を行き来し、将軍のために働くというもの。 領地に帰るときは、妻や子を人質として江戸に残す決まりでした。 ■ ★参勤交代などで大名をおさえつけた 加賀金沢藩(はん)の参勤交代 の様子をえがいた絵があります。 およそ 2000人もの大行列 。 金沢から江戸まではおよそ480km、2週間の旅でした。 武器や衣装、食事代など、行列に...

第21回 徳川家康~戦国から江戸へ~

第21回  徳川家康~戦国から江戸へ~ ■ 関ヶ原の戦いを制し江戸幕府を開いた ときは、西暦1600年。 今の岐阜県関ヶ原。 天下をめぐって、 徳川家康と石田三成が激突 。 家康の東軍7万に対し、三成の西軍は8万。 家康側がおされ気味になったとき、事態は動きます。 小早川秀秋率いる1万5000の軍が、とつぜん、三成を裏切り、家康の味方に なったのです。 形勢は一気に逆転。 家康の大勝利に終わります。家康は、征夷大将軍の座をつかみ取ります。 そして、自分の本拠地である江戸に幕府を開くのです。 ■  子どものころから重ねた苦労 大勝利の秘密は、家康の手紙。 「自分に味方してくれたら領地を保証する」と、大名たちに根回しをして、有利な状況になるのを待ったのです。 家康は子どものころから苦労を重ねていました。 今の愛知県、 三河の国の小さな大名の家に生まれた家康は、人質として有力な大名のもとを転々 としました。 いつ殺されてもおかしくない身の上として13年を 過ごします。 そして 今川義元の人質となっていたとき、桶狭間(おけはざま)の戦いで義元が織田信長に討ち取られ、家康は自由の身に。 戦国大名として頭角を現していきます。 ■  “待つ”家康 戦国時代、天下にいちばん先に近づいたのは、織田信長。 そのあとに豊臣秀吉が続きました。 しかし天下統一を急いだ信長は、明智光秀に裏切られ、殺されました。 秀吉は、天下を治めたあと、中国の征服を考え、朝鮮に兵を送り失敗。 病で亡くなります。 2人の人生を目の当たりにした家康。 ならば自分は、慎重にチャンスを待とう。 そう考えるようになっていきました。 ■  心配のたねは豊臣秀頼 しかし、大きな心配のたねがありました。 それは、秀吉の息子、 豊臣秀頼 。 西日本の大名たちへの影響力を持ち、無視できない存在でした。 豊臣家を完全にほろぼし、徳川の世にしたい家康。 秀頼をせめるきっかけが必要でした。 再び待つこと14年 。 ようやくそのときが訪れます。 ■  74歳でついに天下を 家康が目をつけたのは、秀頼が新しくつくった鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文字。 「家康の名前を切りはなし、豊臣が楽しむ、とある。家康をのろ...

第20回 豊臣秀吉~武士が支配する世へ~

第20回  豊臣秀吉~武士が支配する世へ~ ■ 信長のあとを引きついで 今からおよそ430年前、豊臣秀吉は、亡き主君、織田信長のあとをつぎ、天下統一を進めました。 1582年、信長が家臣の明智光秀にそむかれ、京都の本能寺で亡くなります。 知らせを聞いた 秀吉は、中国地方での戦いを直ちにやめ、京都にもどり ます。 そして、 明智光秀を打ち破りました 。 この手柄により、秀吉は大勢の家臣たちをおさえ、信長のあとを引きつぎます。 ■  関白の地位を利用して大名を従わせた 秀吉は、天下統一のための城として、大阪城を築きます。 そして四国地方をせめ、支配地域を広げます。 勢いのとまらない秀吉は、 天皇の政治をたすける「関白」 という高い地位までも手に入れます。 その高い地位を利用して、各地の大名たちに自分に従うよう命令を出し、抵抗するものには武力を使いました。 そのようにして大名たちをおさえ 、西日本全域を支配 したのです。 秀吉は、関白という地位を利用して、各地の大名を従わせました。 ■  天下統一のためには 天下統一には、大名をおさえるだけでなく、 農民たちを支配することも必要 だと考えます。 そこで行ったのが「 太閤検地 (たいこうけんち)」です。 全国の田畑の面積をくわしく測り、どれだけ作物がとれるのかを調べたのです。 「検地帳」には田畑の面積が記入され、耕作する農民の名前が書かれていました。 どの農民が、どれだけの土地を持っているかが明らかにされ、農民たちは決められた年貢を納める責任を負い、勝手に土地をはなれられなくなりました。 ■  農民を支配するしくみを作った さらに秀吉は、農村に「 刀狩(かたながり)令 」を出します。それは、農民が刀ややりなどの武器を持つことを禁止するものでした。武器を没収し、一揆を防ぐためです。 そして取り上げた武器は、新しい大仏を作るための釘などにするとされていました。 仏のめぐみを受けられる、と農民自ら武器を差し出すようにしたのです。 検地や刀狩を行い、武士が農民を支配するしくみ を作りました。 このように 秀吉は、強大な権力で大名を従わせ、検地と刀狩で農民を支配することで、天下統一を進めた のです。 ■  天下統一、...

第19回 織田信長~天下統一を目指した武将~ NHK

第19回  織田信長~天下統一を目指した武将~    NHK ■ 天下統一をめざした織田信長 「鳴かぬなら…」と、こわい顔でホトトギスを見つめるのは、戦国大名の織田信長。 夢は、ライバルたちをたおし、天下統一をすることです。 いつ殺されてもおかしくないのが戦国時代。 「でも、弓矢なんて古い古い」と信長が持ち出したのは、鉄砲です。 鉄砲は火薬の力を使って 100mくらい弾を飛ばすので 、はなれた敵をたおすのにもってこい。 その 鉄砲を本格的に戦いで使ったのが織田信長 でした。 信長はどのようにして天下統一をめざしたのでしょうか。 ■  下克上の時代 今から450年ほど前、織田信長は天下統一をめざしました。 信長は、今の愛知県尾張の小さな戦国大名の家に生まれました。 父の死により、若くして家をついだ信長は、やがて尾張一国をまとめます。 しかし、信長の生きた戦国時代は、各地で大名たちが争っていました。 身分に関係なく、力あるものがのしあがる、「 下克上(げこくじょう)」の時代 でした。 ■  天下統一のために欠かせない武器 信長が、天下統一のために欠かせないと考えた武器があります。 それは、当時ポルトガル人によって伝えられた、鉄砲です。 鉄砲には、うつのに時間がかかるという弱点がありました。 まず、銃の先から火薬と弾を入れ、火をつけ、構えます。 一発うったら、次の弾をうつまでに30秒もかかってしまうのです。 しかし信長はその弱点をみごとに克服し、戦で本格的に使いました。 それが、 「 長篠(ながしの)の戦い 」 です。 ■  三千丁の鉄砲 その様子がえがかれた『長篠合戦図屏風(ながしのかっせんずびょうぶ)』。 日本最強といわれた 武田騎馬隊との戦い です。 信長軍めがけ、武田の騎馬隊がせめこみます。 待ち受ける織田鉄砲隊。 信長の合図で、「ドドドーン!」と一斉射撃。 信長はこの戦いに備え、三千丁ともいわれる鉄砲を用意しました。 次の弾がうてるまで30秒。 最初の弾をかわした騎馬隊が近づきます。 ■  長篠の戦いで本格的に鉄砲を使った そのときです。 次の列が前に出て、弾を放ったのです。 弾をこめているあいだに次の列が代わ...

第18回 ザビエル~キリスト教の伝来~

第18回  ザビエル~キリスト教の伝来~ ■ 日本人アンジローとの出会い フランシスコ・ザビエル は、およそ500年前、 日本に初めてキリスト教を 伝えました。 スペインの貴族の家に生まれたザビエルは、キリスト教を世界中に広める宣教師となります。 船でアジアに向かったザビエルは、インドを拠点に布教を始めます。 ザビエルがマレーシアで布教していたときに、キリスト教についてたずねる日本人に出会いました。 名前は、アンジロー。 この青年に興味を持ったザビエルは、日本での布教を決意します。 そして 1549年、アンジローのふるさと、鹿児島に上陸 しました。 ■  京都へ さっそく布教を始めたザビエルのまわりには、初めて見る外国人に興味を持った人々が集まりました。 ザビエルはなれない日本語を使い、必死にキリスト教を説きました。 その結果、100人をこえる信者を集めることができたといわれています。 次にザビエルは京都に向かいます。 天皇に布教の許可をもらい、日本全国にキリスト教を広めようと考えたからです。 ところが、京都に着いたザビエルはおどろきます。 京都の町は戦乱 で荒れ果てていました。 そのころ日本は 戦国時代 。 各地の大名がたがいに争い、天皇をこえる力を持ち始めていました。 ■  戦国大名に布教の許可をもらう そこでザビエルは、各地を治める戦国大名に布教の許可をもらうことを考えます。 まず向かったのが、山口です。 ここには西国一の戦国大名、 大内義隆 (おおうち・よしたか)がいました。 ザビエルは、時計やオルゴール、望遠鏡などをおくり、布教の許可を求めます。 ヨーロッパの品々に大きな興味を持った大内氏は、布教を許しました。 山口でザビエルは、わずかな期間に500人の信者を得ました。 九州の大名、 大友宗麟 (そうりん)も、キリスト教に大きな関心を持ち、ザビエルの布教を強くあとおししました。 ■  日本に初めてキリスト教を伝えた しかし、ザビエルはまだ不満を感じていました。 一部の大名が布教を認めても、日本中にキリスト教が広まったわけではないからです。 そこで、ザビエルは中国に行くことを決断します。 中国がキリスト教を認めれば、仏教が日本に伝わったように、キリスト教が広...

第17回 武田信玄・上杉謙信~戦国の争乱~ NHK

第17回  武田信玄・上杉謙信~戦国の争乱~   NHK ■ 応仁の乱がきっかけとなった戦国時代 武田信玄と上杉謙信は、戦国時代に活躍した戦国大名です。 戦国時代は、室町幕府の将軍・ 足利義政のあとつぎをめぐって全国の大名が争った「応仁の乱」 に始まります。 京の都は焼きつくされ、 将軍は力を失い ます。 一方、地方では、領国を独自に支配する「 戦国大名 」が登場。 たがいに勢力争いをくりひろげます。 そのなかに、甲斐の武田氏、越後の上杉氏がいました。 ■  “甲斐の虎”武田信玄 応仁の乱からおよそ50年後、武田信玄が生まれます。 21歳で武田家の当主になると、家臣の能力を正当に評価することで国内をまとめ、戦国最強といわれる軍隊を育てました。 甲斐や信濃一帯を次々と攻略していく信玄。 その圧倒的な強さから、“甲斐の虎(とら)”とよばれました。 ■  “越後の龍”上杉謙信 そんな信玄のライバルが、越後の上杉謙信です。 幼いころから寺で修行し、19歳で当主に なります。 電光石火の戦術で野戦に勝ち、生涯ほぼ負け知らず。 織田信長も、謙信の奇襲攻撃に敗れています。 その神がかった強さから、謙信は、“越後の龍”とたたえられました。 ■  信玄と謙信は戦国大名の象徴的存在だった 信玄と謙信がはげしくぶつかった戦があります。 今の北信濃の支配をめぐって起こった 「川中島の戦い」 です。 5回にわたる戦で特に熾烈をきわめたのが第4回。 信玄は背後から謙信の軍を追い立ててはさみうちにしようと考えます。 しかしそれを見ぬいた謙信。 霧にまぎれて信玄の軍にしのびより、奇襲攻撃をかけます。 大乱戦になったそのとき、一人の武将が信玄の前に飛びこみます。 謙信でした。 ふりおろしたその刀を、信玄は軍配で受け止めます。 この勝負、引き分けに終わりました。 この一騎打ちは伝説ともいわれています。 ■  名将であり名君でもあった 戦いの名人だった信玄と謙信。 領国を治めるうでも確かでした。 信玄の有名な政策の一つが、今ものこる「 信玄堤 (づつみ)」です。 川に堤防をつくって洪水を防ぎ、年貢の収入を安定させたのです。 金山の開発にも力をいれ、多くの金を手に...

第16回 雪舟・世阿弥~室町の文化と芸能~

第16回  雪舟・世阿弥~室町の文化と芸能~ 墨の一色でかかれた絵 雪舟は、今からおよそ500年前の室町時代に活躍した画家です。 僧侶でもありました。 今は絵をかくときにいろいろな絵具を使いますが、雪舟が使ったのは、実は、墨の黒一色です。 雪舟がかいた『秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)』。 岩山は力強い線で、遠くの山はうすくぼかして、墨だけでかかれています。 雪舟のかいた絵は現在6点が国宝になっています。 小さいころからの絵の才能 およそ500年前、雪舟は日本独自の水墨画を確立しました。 室町時代の半ばに、雪舟は今の岡山県総社(そうじゃ)市で生まれました。 雪舟が小さなころに修行したといわれるお寺には、雪舟の絵の才能をうかがわせる話が伝わっています。 あるとき、和尚さんにしかられた雪舟は、柱にしばりつけられます。 絵ばかりかいて修行しない雪舟をこらしめるためでした。 様子を見にきた和尚さんはおどろきます。 雪舟の足もとにねずみがいたのです。 それは、こぼれたなみだをなぞって、雪舟が足の指でかいたねずみの絵でした。 墨の一色でかかれた絵 雪舟は、今からおよそ500年前の室町時代に活躍した画家です。 僧侶でもありました。 今は絵をかくときにいろいろな絵具を使いますが、雪舟が使ったのは、実は、墨の黒一色です。 雪舟がかいた『秋冬山水図(しゅうとうさんすいず)』。 岩山は力強い線で、遠くの山はうすくぼかして、墨だけでかかれています。 雪舟のかいた絵は現在6点が国宝になっています。 小さいころからの絵の才能 およそ500年前、雪舟は日本独自の水墨画を確立しました。 室町時代の半ばに、雪舟は今の岡山県総社(そうじゃ)市で生まれました。 雪舟が小さなころに修行したといわれるお寺には、雪舟の絵の才能をうかがわせる話が伝わっています。 あるとき、和尚さんにしかられた雪舟は、柱にしばりつけられます。 絵ばかりかいて修行しない雪舟をこらしめるためでした。 様子を見にきた和尚さんはおどろきます。 雪舟の足もとにねずみがいたのです。 それは、こぼれたなみだをなぞって、雪舟が足の指でかいたねずみの絵でした。 武士に好まれた水墨画 室町時代は、貴族の力がおとろえ、 足利氏をはじめとする武士が権力を...

第15回 足利義満・義政~室町文化の発展~

第15回  足利義満・義政~室町文化の発展~ ■ 足利義満の力の象徴、金閣 京都、北山で黄金に光りかがやくのが、 金閣 です。 世界遺産に指定され、年間500万をこえる人が訪れています。 建てたのは、 足利義満 。 ■  貴族、武士、寺の文化を取り入れて 金閣の1階には、戸をつり上げ、部屋に光や風を取りこむための 「しとみ戸」 があります。 しとみ戸は、 貴族の建物 で使われていました。 2階には、 武士の建物 のつくりが見られます。内と外を仕切るのは、 「引き戸」 です。あつかいやすくて場所をとらない引き戸は、機能重視の武士の家で使われました。 3階。 丸みを帯びた窓 は、 お寺の建物 のつくりです。 義満が作った金閣は、貴族、武士、寺 、それぞれの文化を取り入れた建物でした。 金閣寺の3つの窓 ■  金閣を中心に華やかな文化が栄えた 義満の力をさらに強くしたのが、当時の中国「明(みん)」との貿易 です。 日本からは金をあしらった扇(おうぎ)などの工芸品が輸出され、明からは大量の銅のお金が輸入されました。 莫大な富を手にした義満は、京都北山の地に、金閣のほかにもたくさんの建物を建てます。 そこでは、貴族や武士をもてなすため、 「 能 」 が演じられました。 義満が力を入れて育てた能は、現代にも伝わります。 金閣を中心にした華やかな文化が、足利義満の時代に栄えたのです。 ■  足利義政の山荘、銀閣 8代将軍の足利義政は、金閣を作った義満の孫 にあたります。 義政が将軍のとき、有力な武士たちが京都で大きな争いを起こします。 「応仁(おうにん)の乱」です。 争いは10年あまり 続きました。 将軍として武士をまとめることができなかった義政は、政治から身を引きます。 そんな義政が京都の東山に山荘として作ったのが、 銀閣 です。 金閣と同じく世界遺産です。 ■  日本独自の建築様式が完成した 銀閣から少しはなれたところにあるのが 東求堂(とうぐどう) 。 ここには義政の書斎があります。 特徴は、 畳 がしきつめられていることです。 また、外との仕切りには 障子 が立てられました。 かべには、「 床の間 」の原型となる「付書院(つけしょいん)」と、「ちがい棚」が配置されました。 ...

第14回 北条時宗~元との戦い~

第14回  北条時宗~元との戦い~ 外国の皇帝から届いた手紙 18歳で「執権(しっけん)」 として鎌倉幕府を率いていた 北条時宗 。 しかし、海の向こうの国の皇帝からの手紙がとどきました。 「今後はたがいにつかいを送って親交を結ぼうではないか」。 ここまではよいとして、問題はここからです。 「もし私の気持ちを理解しなければ、武力を使うことになるかもしれない」。 この手紙、言うことを聞かないと武力を使う、とおどしているのです。 この手紙に対して時宗はどうしたのか。 使者を送って親交を結んだのか、それとも…。 手紙の主はフビライ・ハン 今から750年ほど前、鎌倉幕府を率いていたのが北条時宗です。 1268年、外国から手紙が届けられます。 「従わないと武力を使う」とおどしていました。 手紙の主は、 フビライ・ハン 。 フビライはそのころ、中国を征服して、巨大な帝国「元(げん)」 を打ち立てます。 その後、何度も手紙が届きますが、時宗はフビライと戦うことを決めました。 元が九州にせめてきた 1274年、九州の博多の沖にとうとう元の大艦隊 が姿を現します。 むかえうつのは日本の武士。 当時の武士の戦い方は、まず名乗りを上げ、1対1で行うものでした。 「やあやあ、我こそは肥後の国の住人…」。 「やあやあ我こそは…」。 それに比べて元の兵士は、名乗るどころか大勢でいっせいにおそいかかってきました。 戦い方のちがいに武士たちは苦戦します。 元の集団戦法と爆弾が武士を苦しめた 元との戦いをえがいた絵巻『蒙古襲来絵詞(えことば)』。 そこには、当時の武士が見たこともない武器がえがかれています。 爆発する武器です。 その中には、火薬と鉄のかけらが入っていました。 経験したことのない武器に武士たちは手も足も出ません。 元の集団戦法と爆弾 が、日本の武士を苦しめました。 次の戦いへの備えを そんな苦しい戦いの夜のこと。 嵐が来て海上は大あれとなります。 翌朝、元の船は、嵐をさけて帰ってしまったのか、見当たりませんでした。 しかし時宗は、元の軍が再びおそってくると考え、次の戦いに備えます。 敵の上陸を防ぐため、石のかべ、 「石塁(せきるい)」 を築きました。 高さは2m以上、全長は、海岸に沿...

第13回 北条政子~ご恩と奉公を受け継ぐ~

第13回  北条政子~ご恩と奉公を受け継ぐ~ 鎌倉幕府の土台を守った北条政子 北条政子は、鎌倉幕府を築いた源頼朝の妻です。 頼朝亡きあと、政子たち北条一族で幕府を守りました。 ――時は平氏の全盛期。 平清盛から京都を追われ、伊豆へと流された頼朝。 そんな頼朝と恋に落ちたのが、政子。 武士の世をつくろうとする頼朝を全力で支え、愛したのです。 政子の目標は、頼朝がつくった鎌倉幕府の土台を守り、支えること でした。 頼朝と出会って 平安時代末期、武士の二大勢力、平氏と源氏がぶつかり、平氏が勝利します。 敗れた源氏の頼朝は都を追われ、遠くはなれた伊豆へと流されました。 頼朝は再起を胸に秘め、 伊豆で17年の歳月を 過ごしていました。 そんな頼朝のもとへと走る一人の女性。 伊豆の武士、 北条時政の長女、政子 です。 頼朝と愛し合うようになり、父親の反対をおしきって結婚します。 その3年後、頼朝は再び戦いをいどみます。 そして弟の義経たちとともに平氏をたおし、政権をつかみ取りました。 鎌倉に幕府をつくり、武士による世を切り開いたのです。 頼朝の死後訪れた危機 しかし1199年、 頼朝は53歳で亡くなります 。 悲しみにくれ、髪を切り、尼となって冥福をいのる政子をさらなる悲劇がおそいます。 息子たちが次々と殺され、源氏の将軍が三代でとだえてしまった のです。 すると、京都の朝廷が幕府をたおそうと動き出します。 朝廷は幕府に従っていた御家人(ごけにん)たちに協力を求めました。 朝廷に味方するか、幕府を守るか。 御家人たちは動揺します。 鎌倉幕府の大きな危機でした。 「ご恩」と「奉公」 そのとき立ち上がったのが、 “尼将軍”とよばれていた政子 でした。 政子は、頼朝が築いた「ご恩と奉公」の大切さを説きます。 それは、頼朝政権を支えた仕組みでした。 頼朝は戦で活躍した 御家人にほうびとして土地をあたえました。 これが「ご恩」 です。 これに対し御家人は、戦のとき “いざ鎌倉”とかけつけ戦いました。 これが「奉公」 です。 『 頼朝さまのおかげであなたたち武士の地位は上がり、土地も増えました。 そのご恩は山よりも高く海よりも深い 。 今こそそのご恩に応えるときです』。 御家人たちは深く感動...

第12回 源頼朝~ご恩と奉公~

第12回  源頼朝~ご恩と奉公~ 武士の時代を作る 政治をほしいままにしていた平氏を壇ノ浦の戦いで破り、ついに源氏の世を手に入れたのが、源頼朝です。 壇ノ浦の戦いでは弟の義経が大活躍し、大勝利となりました。 頼朝がめざしていたのは、武士の武士による武士のための政治。 武士たちが活躍する世の仕組みを作っていくことでした。 平氏に敗れた源氏 平安時代の終わり、13歳の頼朝は、武士のグループ、源氏のあとつぎとして、父とともにある戦に打って出ます。 平氏のリーダー平清盛との戦いです。 しかし、天皇を味方にして勢いづいた清盛に、無残に敗れ去ります。 父は死に、頼朝は京都から遠くはなれた伊豆へと追放されました。 源氏を再び盛り立てる日を、じっと待ち続けます。 その間、政権をにぎった 平清盛は上級貴族 となり 、一族で思うままに政治をあやつっていました。 つまはじきにされた武士たちのあいだで不満は高まっていきました 。 味方を集めるために 伊豆へ流されて20年。 「今こそ平氏をたおし、武士の世を作る時だ」。 頼朝は立ち上がります。 しかし、時は平氏の全盛期。 なかなか味方は集まりません。 そこで 頼朝が目を付けたのは、武士たちの持つ「土地」 でした。 当時、平氏は全国に勢力をのばし、その支配は関東にもおよんでいました。 多くの武士が、先祖代々の土地をおびやかされていたのです。 武士にとって領地は何よりも大切なはず。 頼朝は関東の武士たちに、「味方してくれたら領地を支配する権利をあたえる」とよびかけます 。 ついに平氏をたおした こうして、武士たちが続々と集まり始めました。 東北からは弟の義経もかけつけます。 頼朝は鎌倉に拠点を構え、義経たちを西へとせめのぼらせました。 源氏は順調に勝ち進み、平氏を追いつめていきます。 そしてむかえた決戦の場は、山口県 壇ノ浦 。 白い旗が源氏 、赤い旗が平氏です。 潮の流れが変わったのを機に、形勢は源氏に有利になり、大勝利を収めました。 ついに頼朝は、打倒平氏の悲願を果たしたのです。 土地を仲立ちにした「ご恩と奉公」 頼朝に仕える武士は、「 御家人 (ごけにん)」とよばれていました。 頼朝は、戦で活躍した御家人に領地の支配を認めました。 これを「 ご恩 ...