大川平三郎。渋沢栄一の書生から製紙王。郷土に貢献。<川越藩の先人。坂戸市横沼
大川平三郎 |
・1860年12月7日~1936年12月30日没。76歳
【地図】
大川平三郎は、坂戸市横沼の剣道場で生まれました。
剣道場は、大川平三郎の祖父、
川越藩 剣術師範の大川平兵衛がおこしたものです。
大川平三郎は、13歳で東京にいる叔父の
渋沢栄一の書生となりました。
※
渋沢栄一は、大川平三郎の義父にあたります。
平三郎の母は、富岡製糸場をつくった尾高惇忠(じゅんちゅう)の妹です。
尾高惇忠のもうひとりの妹 千代は、渋沢栄一の最初の妻です。
大川平三郎は、東大で英語、歴史を学びました。
16歳で、渋沢栄一の王子製紙に入社しました。
会社不振の原因を分析した建白書を提出ました。
それが会社に認められ、
製紙法研究のため、
米国留学しました。
帰国後、多くの会社の社長や取締役に就任しました。
九州製紙。中央製紙、樺太工業。四日市製紙、富士製紙。セメント、鉄鋼、ビールの事業にも関係。
大川平三郎の製紙会社は国内市場の45%を握り、
「日本の製紙王」とよばれました。
80余の企業を経営し「大川財閥」をつくりあげました。
大川堤 |
たびたび洪水にみまわれた村のために、私財を投じて
越辺川(おっぺがわ)に大川堤(おおかわづつみ)を築いたり、
三芳野小学校の増新築に多額の私財を注ぎ込みました。
武州銀行の初代頭取をつとめました。
大川育英会を組織し、多くの学生を育てました。
渋沢栄一も大川育英会を創設から支えました。
渋沢栄一も大川育英会を創設から支えました。
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【大川平兵衛、大川平三郎の祖父 】
1862年、川越藩の剣術師範となりました。
大川道場跡 |
1862年、川越藩の剣術師範となりました。
農民から剣士になりました。
1871年、70歳で没しました。
平兵衛を慕う門人たち500名以上が「頌徳碑(しょうとくひ)」を建立しました。
前福井藩主 松平春嶽の筆になり、文案は尾高惇忠によるものです。
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