原敬。岩手出身のどエライ首相。Hara Takashi。11月4日没

原敬。岩手出身のどエライ首相。Hara Takashi。11月4日没   
原敬。
パリ時代、35歳、1887年ごろ

・1856年2月9日。岩手県 - 1921年11月4日没。東京駅で暗殺。65歳。


原敬(はら たかし、はらけい)は、東大法学部を退学します。
藩閥風を吹かす薩摩の校長の排斥運動に加わったからです。

津軽の陸羯南(くがかつなん)、福岡藩の福本日南など賊軍呼ばわりされた藩の出身者も同一行動をとります。

23歳で『露西亜 国勢論』をフランス語から翻訳します。
新聞社に入り、北海道、東北、関東をまわり72回にわたり見聞録を連載します。

このとき地方分権の重要性をとなえます。
地方分権しなければ、地方は必ず衰退する。
「地方に権限を与えよ


26歳で外務省に入り、天津に2年、パリに3年赴任します。


39歳で外務次官となり、病気がちの陸奥大臣に代わって活躍しました。
【※】次官
官僚のトップの役職。大臣の任期は限られるため,実際には各省で最も権限をもつ存在

41歳から4年間『大阪毎日新聞社』の編集責任者、社長として活躍します。
100本以上の記事を書き、言文一致、漢字減少論をとなえます。

忠義、礼儀作法を尊ぶダンディーなジャーナリストです。


45歳で大阪北浜銀行頭取になり、
49歳で古川鉱業の副社長(実質は社長)になります。

このとき古川の寄付で、北大、東北大、九大を開校します。
【※】古川
古河とドイツのジーメンスが合弁で設立したのが、富士電機です。
富士は古河の「フ」とジーメンスの「ジ」から名付けられました。

44歳の時逓信(ていしん。郵政)大臣を兼務します。


1918年首相になります。
政党を中心とす
る内閣をはじめてつくり
藩閥や軍閥の弱体化をはかります。



教育の充実、地方の振興、アメリカとの関係を重視し、中国との関係改善に努力します。


開明的な原を無視した日本は、
軍部の独走で破滅の道
を歩みました。



19歳から死の65歳まで83冊の日記を書き続けました。
原敬は、この日記の執筆に心血を注ぎました。

この日記は近代日本の政治史を知る上で比類のない資料となっています。


爵位をこばみ続け、爵位をもたないまま首相になった原敬を世間は「平民宰相」とよび歓迎します。


戊辰戦争によって朝敵の位置に追い込まれた岩手を擁護し、
「1868年の戊申戦役は政権の異同があっただけのことです」と朝敵の汚名をそそぎます。



俳号は「一山(いちざん)」、印章は「一山百文」です。
「白河以北一山百文」といいはなった薩長への激越な反感が見られます。


5歳から読み書きや漢学を学びます。

これが原敬の広大なインフラとなります。

1921年(大正10年)、
原敬首相は東京駅で暗殺【地図】されます。


死後、財産は政友会に寄贈し、自らには何も残さなかった井戸塀政治家です。


今までで エライ総理大臣は原敬です。
2番目は吉田茂、3番目は伊藤博文
です。

「平民宰相」原敬の声をAIで再現 盛岡・原敬記念館  【+2】

原敬記念館 原敬生家  【+1】

【名言】

「日本には鉄のごとき国民性が存在する。
鉄は堅いが、鍛錬され形を変えることもできる。

 鉄と同じように、日本も旧来の思想の上に
外来の進歩思想を調和させていかなければならない」





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公利追求の原敬をみならえ  (NK2011/9/15)  伊藤之雄

選挙で選ばれた人々が国政に責任を持つとの理念は正しい。問題は、実質的に政治が官僚をコントロールし、より確かな日本の未来を形成し、国民に希望を与えることである。

 旧憲法下ですら、第1次世界大戦後に政友会を率いて本格的な政党内閣の首相となった原敬は、陸軍大臣の人事にまで介入するほど陸・海軍へのコントロールに成功した。また大戦後の国際協調の時代に対応すべく、米・英などとの協調外交路線を定着させ、国際経済競争に対応すべく産業基盤の整備を進めた。

 原は青年期から一貫して、「公利」を追求する成熟して自立した国民が国家を支えるべきだと考え、新聞人・外交官・政治家として活動してきた。そうした大きなビジョンに加え、原は陸・海軍の状況も十分に理解し、そのうえで軍当局と安全保障と財政についての厳しい議論をした。

こうした現実的手法で、軍からの信頼も得て、1920年代の軍縮と国際協調の源流をつくった。軍(官僚)を批判するだけでは、コントロールは強められないのである。