1900年37歳の時に刊行した『Bushido:The Soul of Japan(武士道:日本人の魂)』は海外で大きな反響を巻き起こしました。
以降日本人著のこれ以上のベストセラーはでていません。
『武士道』により、稲造は日本精神のよりどころ(ノブレス オブリージュ noblesse oblige、貴族の義務)をあらわしました。
アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト は、感動のあまり数十冊を購入し、世界の要人に配りました。
ルーズベルト大統領が、日露戦争の講和の斡旋役を買って出たのは、稲造の描く武士道を尊敬したからです。
『武士道』はその意味で日本の運命を救った一書です。
東大総長の矢内原忠雄は「その功績、3軍の将に匹敵する」と評しました。
1920年には「われ太平洋の橋とならん」と言って国際連盟の事務局次長になりました。
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日本は明治維新後30余年で世界最大の軍事国家ロシアと戦い(1904-1905)、ロシアの強盗じみた極東侵略を阻止しました。
日本はバルチック艦隊を日本海に沈め、旅順を抜き、ロシア陸軍を撃破しました。
しかしロシア本国に攻め入りませんでした。
世界最大のロシア陸軍は健在で戦争を続ける能力もありました。
日本にはありませんでした。
日本は兵力、弾薬を使い切っていました。
ルーズベルトの仲介がなかったら、ロシア革命が蠢動していなかったら、日本の運命はどうなっていたでしょうか。
その後、軍事官僚達はこの国際情勢を冷厳に分析することなく、夜郎自大になり日本を奈落に突き落としました。
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新渡戸家は南部藩の名門でした。
戊辰戦争で賊軍となった南部藩は、城や領地を引き渡さねばなりませんでした。
稲造の祖父は南部藩の勘定奉行として引き渡しの実務を取り仕切りました。
父は藩主の命ではじめた青森県十和田市の新田開発の仕事に律儀に取り組みました。
米作を願って新田開発に命をささげました。
米は江戸時代までは金銭そのものでした。
「稲造」という名も新田開発の夢を込めてのことでした。
7人の子供をもちながらも家をほとんど空けたままで仕事に打ち込み、48歳でなくなりました。
稲造が札幌農学校を目指し農政学を専攻したのもむべなるかなです。
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明治政府は北海道の開発を国家的な重要課題とし国家予算の1年分に相当する巨費を投じて開拓事業を始めました。
開拓の人材養成のために札幌農学校(北海道大学)を開設しました。
初代学長にはクラークを招き入れました。
稲造は札幌農学校を卒業後、東京大学に入学しましたが飽きたらず、翌年退学し、23歳でアメリカに向かい農業経済学などを学びます。
帰国後は札幌農学校で教鞭をとりました。
1901年、奥州市水沢出身の後藤新平に推されて台湾の殖産事業に参画しました。
東大教授、東京女子大学長を歴任し、1920年から国際連盟事務次長として活躍しました。
花巻 新渡戸記念館
十和田市立新渡戸記念館
高橋温:新渡戸稲造の人生訓、「人の幸、不幸はその人の心の内にある」(NK2012/5/8)