喜多院の関連施設

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喜多院寺域内の関連施設
前号の「喜多院外」に続き、「喜多院内」のスポット26件を紹介する。
NPO法人武蔵観研 会長  桑原政則

1 本堂

本堂は、慈恵堂、潮音殿とも。
慈恵(じえ)大師・良源をまつる。
良源は元日の3日に逝去したので元三(がんさん)大師とも。角(つの)大師、豆大師の別称も。
慈恵大師の両脇には、不動明王が。
本堂のあざやかな五色幕は、「地・火・水・風・空」をあらわす。五輪塔と同。


2 大黒天

七福神信仰は天海が説き、家康が奨励との説。
大黒天は、シヴァ神の化身の黒い神。
のちに「ダイコク→ 大国」の類推から、大国主(オオクニヌシ)と同一視される。
米俵に乗り、大きな袋を背負い、打ち出の小槌をもつ。
大黒天は台所と座敷の間の大黒柱にまつられる。

3 天海僧正お手植えの槇

御神木は神社にあるものだが、神仏習合の天台宗では神・仏を同じく礼拝。
槇(まき)は樹齢350年。

4 庫裏=寺務所(拝観施設内)

拝観所入り部分。庫裏(くり)とはお寺の台所。

5 客殿:徳川家光誕生の間(拝観施設内)

江戸城より移築。書院とともに江戸城唯一の遺構。
6室よりなる。誕生の間には襖(ふすま)、壁面に墨絵の山水画、天井に81枚の花模様が。湯殿と厠(便所)も。

6 書院:春日局化粧の間(拝観施設内)

徳川家光の乳母・春日局が使用していた部屋を移築したもの。
8畳2室、12畳2室、中2階。床の間や脇床も。

7 遠州流庭園(拝観施設内)

小堀遠州流枯山水の書院式庭園。

8 家光お手植えの桜(拝観施設内)

徳川3代・家光お手植えの枝垂(しだ)れ桜。桜は2代目。

9 紅葉山庭園(拝観施設内)

江戸城の紅葉山(もみじやま)庭園を模したもの。
丸、菱、四角の縁石を幾何学的に配置した小堀遠州流庭園。

<* 客殿・書院などは2014年8月頃まで拝観休止です。 >

10 多宝塔

釈迦如来などをまつる二重の塔。
1階は方形、2階は円形。間を白いしっくいの亀腹(かめばら)で結ぶ。
日本独自の形式。高さ13メートル。

11 五百羅漢

日本三大羅漢の一つ。
クスクス、シクシク、ヒソヒソのユーモラスな羅漢(らかん)様が538体。
羅漢とは、尊敬に値する修行者のこと。
中央に釈迦如来、正面から見て、左に獅子に乗った文殊菩薩、右に象に乗った普腎菩薩とが。
左の高座に阿弥陀如来、右の高座に地蔵菩薩が。
1782年(天明2年)より50年かけて建立。

12 太子堂

聖徳太子は、仏教を保護したので、どの宗派も信仰。
曲尺(かねじゃく)を発明したので建築業界では太子信仰がさかん。

13 山門

4本の柱が屋根を支える四脚門(しきゃくもん)。
もとは後奈良天皇筆の「星野山」の勅額が。
天海が1632年に建立。喜多院最古の建物。
天海筆の棟札(むねふだ)は、国指定有形文化財。
寺はかつて山に建てられたので、正門を山門という。

14 番所 (山門脇)

かつては境内内部にあった切妻造りの建物。
起屋根(むくりやね)、桟瓦葺(さんかわらぶき)の建築は埼玉県内に残る貴重な遺構。

15 鐘楼門

階上の梵鐘(ぼんしょう)は修行中の僧などに時を知らせるためのもの。
中側から見て花鳥、外から見て竜の彫刻が階上に。
鐘楼門(しょうろうもん)は、昔の広かった境内の中央にあり、慈眼堂への参道門の役割。

16 慈眼堂

慈眼堂(じげんどう)は慈眼大師・天海をまつる御堂。
徳川家光の命により建立。
屋根は中央から四方へ流れる宝形(ほうぎょう)造り。
厨子(ずし、大きな仏壇のようなもの)の中には。木造の天海僧正坐像が。
1643年に天海僧正が没する直前108歳の時の像です。
慈眼堂はかつて日枝神社と前方後円古墳上で結ばれる。県道が分断。

17 暦応の碑など  (慈眼堂の裏手)

暦応(りゃくおう)の碑、天海墓碑、延文の板碑、歴代住職墓碑。

18 苦ぬき地蔵尊

赤いよだれかけをつけ、色とりどりの旗に囲まれる。「苦を抜き取る」地蔵尊。
天台宗は、神、仏、民間信仰を包含する柔軟な宗教。

19 松平大和守家廟所(びょうしょ) (本堂裏)

東日本大震災で倒壊。修復時期は未定。
1767年から1866年まで7代100年の間川越藩主であった松平大和守家の廟所(びょうしょ)。
5人の藩主、朝矩(とものり)、直恒(なおつね)、直温(なおのぶ)、斉典(なりつね)、直候(なおよし)が葬られている。
松平大和守家は、家康次男の結城秀康を祖とする。

20 どろぼう橋

その昔、どろぼうが、捕り方に追われ、橋を渡り、喜多院の境内に逃げ込んだ。
喜多院は朱印地(1種の自治領)で、川越藩も捕まえることができなかった。
どろぼうはのちに改心して善人になり、無罪放免される。
以降商家でまじめに働き、一生を過ごす。
以来、この橋は「どろぼう橋」とよばれるように。

21 堀

かつての川越の主な寺は川越城をまもる砦の役目も果たしていた。
深く掘った堀の土は、慈眼堂の盛り土にも。
戦争中は防空壕もここに。

22 三位(さんみ)稲荷 (現存せず)

かつては公園側に三位稲荷神社の鳥居が。
三位(さんみ)という小僧が、「お師匠様が空中に飛んで行った」と聞いて、後を追うためにホウキを持って飛び上がった。しかし、法力が足りず庭に落ちて落命。三位の落ちたところが三位稲荷。

23 法龍弁天  (見学不可)

法龍(ほうりゅう)弁天はお堀への水源であった。
浮島神社にも通じていた。

24  随身門 (仙波東照宮への門)

朱塗りの八脚門(やつあしもん)、切妻造り。
かつては後水尾天皇筆の「東照大権現」の額が。

25 天海僧正お手植えの榊 (仙波東照宮売店脇)

榊(さかき)は、天海僧正お手植えとの言い伝え。

26 仙波東照宮 (喜多院関連施設)

1617年、徳川家康を日光山に改葬の途中、喜多院で天海僧正が大法要を営む。
これを機に仙波(せんば)に東照宮がまつられる。
1638年の川越大火により類焼。
徳川家光の命により川越藩主堀田正盛が直ちに再建に着手。

【お礼】
塩入秀知住職に取材協力を謝します。文責は桑原政則にあります。


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喜多院寺域外の関連施設  #111

喜多院には、寺域外に、仙芳仙人塚、三変土田稲荷神社、龍池(りゅうち)弁財天といった地元民も見逃しがちなスポットがある。ここでは全10カ所について略述する。
NPO法人武蔵観研 会長  桑原政則

1 白山権現

喜多院創建時に慈覚大師・円仁がまつる。
修験場の霊場・白山より分霊。
修験とは神と仏双方の力を得るための修行。
権現(ごんげん)とは、仏のなりかわり。
円仁(794- 864)は、比叡山延暦寺第3代座主(ざす)。
最澄の弟子で、密教を学んだ最後の遣唐使。
『入唐求法巡礼行記(にっとう ぐほう じゅんれいこうき)』は、玄奘(げんじよう)「大唐西域記」、マルコ・ポーロ「東方見聞録」とともに、三大旅行記のひとつ。

2 天海大僧正像

天海は、徳川家康の信頼あつかった宗教顧問。
家康もたびたび喜多院、川越城へ。
2代秀忠、3代家光の相談役としての大役も。
108歳まで長寿。
家康への養生訓「気は長く 勤めはかたく 色うすく 食ほそうして こころ広かれ」は有名。色とは欲のことか。
ここの説明板は、横書き、西暦、ふりがなつき、ですます調で、今後の手本に。

3 明星杉

尊海が、近くの池からの光が、杉にかかり明星となるのを見て、堂を建て、星野山(せいやさん)と名付けた故事による。
尊海(1253- 1332)は兵火で荒廃していた無量寿寺(喜多院、中院)を再建。
ときがわ町・慈光寺、比叡山を経て、無量寿寺住職に。

4 日枝神社

円仁が無量壽寺を中興する際に、日吉大社より勧請。
赤坂の山王日枝神社の親神社。
かつては、慈眼堂と同じ古墳上に。県道が分断。愚挙。
拝殿脇に坑底無(皇帝無、底なし穴)と言われる井戸の跡が。
この井戸にお札を納めると、龍池(りゅうち)弁財天の池に浮き出たという言い伝えが。
赤坂の山王日枝神社は、太田道灌が1478年ここから分霊(のれんわけ)。


≪ 赤坂の山王日枝神社  ≫
比叡≒日枝(ひえ)、日吉(ひよし、ひえ)。
日吉大社は比叡山を守護。
 *喜多院関連施設

5 喜多院学寮跡

修行僧の学寮跡。
ここもかつての広い境内の境界内に。
喜多院は徳川家の手厚い庇護を受けていた。

6 斎霊殿
斎霊殿(さいれいでん)は喜多院の葬儀場。
裏には墓地が広がる。
製茶機の発明家・高柳謙三の墓も。

7 仙芳仙人塚

仙芳(せんぽう)仙人は、海だったこのあたりを龍神から譲り受け、陸地にし、今の喜多院を建立。
住む所をなくした龍神は「龍池(りゅうち)弁財天」の池に。
仙芳仙人の仙芳がこの付近の地名「仙波(せんば)」に。

8 本地堂跡

本地堂(ほんちどう、薬師堂、大講堂)の跡。
のちに上野・寛永寺の根本中堂として移築。
≪ 寛永寺のページ ≫

9 三変土田稲荷神社

4世紀後半の古墳の上に建立。
榎の木稲荷とも。
三変土田(さんぺんどでん)とは、仏様がけがれた国土を三度変じて浄土としたとのいわれから。

10 龍池(りゅうち)弁財天
近くに小仙波貝塚があることからわかるように、この付近は海に面していた。
仙芳仙人が、今の喜多院建立のため、龍神に願い、海を陸地に変ずる。
海がなくなった龍神は、ここの池に住むことに。
弁財天は、水に関係する神。
もともとは「弁才天」だが、「弁財天」とし財宝の神となり、七福神の中の紅一点に。

【お礼】
塩入秀知住職に取材協力を謝します。文責は桑原政則にあります。