川越の仙波東照宮 (せんばとうしょうぐう)
1617年に静岡の久能山(くのうざん)から家康の遺骸を日光に移すとき、天海は亡きがらを黄金のみこしで運ばせました。
1300人の武士を随行させ常に天海がみこしによりそいました。
行列は、江戸城には立ち寄らず、川越の喜多院で実に4日間もの大法要を営み、日光におさめました。
一行は約20日間もかけて日光へ到着しました。
神の誕生を天下に告知するための天海の周到な演出でした。
「徳川家康は東照大権現となって再び現世に戻り、神威で徳川政権を守る。」
これが、天海が構想した家康神格化のプログラムです。
これにより泰平の江戸期が実現しました。
葬儀の導師をつとめた天海はこのとき80を越えていました。
今に続く日光の「千人武者行列」は、久能山から日光へのこのときの行列を模したものです。
天海は東照宮を全国に建てることに熱心でした。
600社ともいわれる東照宮が生まれ、東照大権現の神威は全国に行き渡るようになりました。
このうち、久能山東照宮、日光東照宮、および川越の仙波東照宮を3大東照宮とよびます。
<*川越藩主に徳川幕府の重鎮が配されたのは、江戸の精神世界の建設者の天海が、川越の喜多院住職であったことも関係しています。老中は松平信綱など6名、大老は柳沢吉保、酒井忠勝の2名>
仙波東照宮は、1617年、家康の亡きがらを久能山から日光へ運ぶ途中、わざわざ喜多院へ寄り法要が営まれたことにより建立されました。
徳川家では、家康だけが神で、あとの将軍は仏です。
家康が「神君」とよばれるのは、神であり、君主であるからです。
天海は、家康を「東昭大権現(とうしょうだいごんげん)」という神様にし、260年以上にわたり徳川家の安泰をはかり、日本に平和をもたらしました。
260年の泰平は世界史上希有なことです。
泰平の時代の礎を築いたのが家康、天海です。
家康は極楽に往生しようとは考えませんでした。
あの世に浄土をつくるのではなく、地上天国の実現を願いました。
神になり、死後もこの世にあって、戦乱のない平和な世の中をつくろうとしました。
東照宮(とうしょうぐう)は、もともとは東照社とよばれていました。
1645年天皇が東照社を、次の理由で、東照宮に格上げしました。
「1617年に東照社が日光に鎮座されて以来、国内、皇室、幕府も平穏安泰である。
これはひとえに東照社の神徳のおかげである。
それゆえ、東照社を東照宮と改め称したてまつる。」
この年より、毎年朝廷より東照宮と伊勢神宮にお使い (奉幣使、ほうへいし)が派遣されるようになりました。
「宮」は、伊勢神宮のように皇室の祖先神をまつる神社にもちいられます。
それ以外で宮号を称するのは、菅原道真の天満宮と東照宮だけです。
家康はこれで天皇と対等になりました。