聖徳太子。日本初の自主外交を行なう。隋の煬帝(ようだい)と対等の交渉
聖徳太子。日本初の自主外交を行なう。隋の煬帝(ようだい)と対等の交渉
・574年2月7日~622年4月8日。49歳
聖徳太子は、20歳で33代 推古天皇(女性天皇。聖徳太子のオバ)を助け、
豪族たちの争いばかりの日本を天皇中心の政治につくりかえました。
【*】聖徳太子は、生前は厩戸皇子(うまやどのみこ)。死後に聖徳太子
聖徳太子。日本を天皇中心の国にする。飛鳥文化。仏教をさかんに
| 隋、高句麗と日本 |
聖徳太子は、隋の煬帝(ようだい)と自主外交をおこないました。
聖徳太子は607年に小野妹子(おの の いもこ、男性)を遣隋使として派遣し、
「日出ずるところの天子、
書を、
日没するところの天子にいたす。
つつがなきや」
と書き送りました。
2年後にも、聖徳太子は隋の煬帝に国書を送りました。
対等の姿勢を崩しませんでした。
「東の天皇、
つつしみて、
西の皇帝にもうす」。
巨大帝国の隋の(ようだい)には、
どの国も、朝貢(ちょうこう)の形をとっていました。
中国皇帝には、臣下の礼をとり、服従するのが決まりでした。
【※】朝貢
朝廷に貢(みつぎ)ぎ物をさしあげて、臣下の礼をとること。
しかし、
聖徳太子は、
最初から隋を対等において、
日本の自主外交を始めました。
「和を以て貴しとなす」は
日本の核心です。
【追】
仏教伝来 538年
初の元号 大化 645
【隋の略史】
魏 呉 蜀の三国志の時代を経て、
581年隋が中国を統一しました。
【※】秦も隋も遊牧民族です。漢民族ではありません。
朝鮮半島では新羅、百済が隋に朝貢していました。
隋は高句麗の征服をはかり、3回にわたり攻めました。
遠征中に中国各地に農民反乱が起き、隋の国力も衰退中でした。
聖徳太子は高句麗との通信で、
隋の情けない国情を知っていました。
「日米地位協定」の改訂を
いま、日本は「日米地位協定」により、アメリカの占領国のままになっています。
アメリカは軍事基地を日本内に意のままにつくることができます。
ドイツとイタリアでは、「地位協定」はとっくに改定されています。
「日米地位協定」は日本のためにもアメリカのためにもなりません。
「日米地位協定」を改定すべきです。
聖徳太子の自主外交を見習って、自立自尊しましょう。
歴史を学ぶ意義は、こんなところにもにあります。
なお「アメリカは日本を助けます」
60年以上も軍事同盟を結んでいる国を見捨てたら
世界中からの信用がなくなります。
日本はアメリカにとって、太平洋の最後の砦です。
アジアに日本があるから、アメリカもがんばれるのです。
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