新島八重の「焼弾(やきたま)押さえ」で炎上を免れた鶴ケ城

炎上をまぬがれた鶴ケ城

1868年9月14日、15日、16日、朝6時から夕6時まで西軍は、鶴ヶ城を総攻撃します。

西軍(薩長、新政府軍)は、7カ所に50門の大砲を設置しました。
会津側の大砲は1門のみでした。

八重たち女性陣は、弾薬運び、負傷者の看護に奔走しました。

八重は、「焼弾(やきたま)押さえ」の指導をしました。

当時の砲弾は落ちてから破裂するまで少し時間がかかりました。

八重は教えました。
「飛んできた砲弾に、濡れ着物、濡れ布団をかぶせなさい。」

失敗すると、砲弾の爆破の犠牲になります。
婦女子は、次々に飛んでくる砲弾に衣類で果敢にいどみかかりました。


戦いの最中に、八重が松平容保に砲弾について説明をしたとの記録が残っています。

これにより、鶴ヶ城は炎上を回避しました。


【cf.】福島良一講演、2013/07/13、川越クラッセ、「新島八重--”女だてら”を貫いた不屈の精神」、一部参考にしました。