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聖徳太子=厩戸皇子(うまやどのみこ)。十七条の憲法を定める。Prince Shotoku。4月8日没

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聖徳太子= 厩戸皇子(うまやどのみこ) 。 十七条の憲法を定める。 Prince Shotoku。4月8日没 ・574年2月7日~622年4月8日没。 「聖徳太子」は、後世の尊称で、生前は厩戸皇子(うまやどのみこ)とよばれていました。 聖徳太子  新しい国作り      【+10】NHKこども 蘇我馬子と力を合わせ、天皇中心の国をつくる 603年  冠位12階 17条の憲法    和をもって貴しと為す ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★   聖徳太子の頃の高句麗  ※wp 厩戸皇子(うまやどのみこ)のころの日本は、 天皇や豪族たちが争う混沌期でした。 天皇に強い力はありませんでした。 混沌日本を初歩の国家にしたのが、 厩戸皇子集団(=聖徳太子とそのグループ)です。 厩戸皇子は、20歳の時、推古天皇の摂政(代理) となり、 蘇我馬子と協調しながら政治をおこないました。 蘇我氏は、当時の先端科学・仏教を信奉していた渡来系 の人々でした。 そのころ日本は、高句麗、新羅、百済に振り回されていました。 日本は、安定した外交を求めて、随との国交を求めました。 600年遣隋使が随を訪れます。 遣隋使は相手にされませんでした。 すべてがあまりに未熟で、国書さえ持参してませんでした。 厩戸皇子は、高句麗からの高僧・慧慈(えじ)に学びました。 さらに、多くの渡来人を 斑鳩宮(いかるがのみや)に集め、 最先端の文化技術を吸収 しました。 607年、廐戸皇子は第2回目の遣隋使を派遣、随の皇帝と対等な国交を結びました。 後世の日本人は、血塗られた天智天皇(てんじてんのう、中大兄皇子、なかのおおえのおうじ、 )よりも、 厩戸皇子集団を聖徳太子ひとりに集約し、 聖徳太子を誇るべき日本人として心に刻むようになりました。 ・・・・・・・・・・・ 聖徳太子:日本社会の徳目は「和」 聖徳太子は、「和」がなによりも大事なことを知っていました。 それゆえ 「和をもって尊しとなす」を十七条憲法の第1条 におきました。 和とは、古代から現代に至るまで、日本人にと...

コロナ用語集。新型コロナ ウイルスの用語集です。改訂版

コロナ用語集。新型コロナ ウイルスの用語集です。改訂版 コロナ統計worldometers    日本語翻訳版   【※】 人口あたりの新型コロナウイルス死者数の推移【国別】    東京都新型コロナウイルス感染症対策サイト 埼玉県新型コロナウイルス感染症対策サイト ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ 「コロナは正しくおそれる。 まちがって、おそれない」     Me for All, All for me.  <  One for All, All for One.     「コロナは、グローバリズム(地球全体主義)への 環境からの逆襲」 コロナ 地図      >>  iPhone版「NewsDigest」     >>  Android版「NewsDigest」 ・・・・・・・・・・・ ◆ 記数英 COVID-19 (コヴィッド ナインティーン) 「 Co rona Vi rus  D isease 20 19 」を略した専門用語。武漢ウイルスとも ICU Intensive Care Unit。 集中治療室のこと。 ◆ あ◆ か◆ さ◆ た◆ な◆ は◆ ま◆ や◆ らわ アウトブレイク  Outbreak 感染症の突発的な感染拡大 アフターコロナ after Corona。 感染拡大が終息してしばらくの状況。 日本では、アフターコロナの段階に入っている。 医療崩壊 医療サービスの提供が困難な状態になること インフォデミック infodemic 情報(information)やデマが伝染病(epidemic)のように広がる状況。 ウィズコロナ with Corona。 新型コロナウィルスと共存・共生すること。 外出自粛など人びとの行動が強く制限される。 ウイルス virus【発音】   超極小の病原体。 *ウイルスはときに応じ変異します。 オーバーシュート   over...

高林謙三#2 製茶機械の発明で近代日本を救おうとした熱血医師 <川越の先人

高林謙三#2 製茶機械の発明で近代日本を救おうとした熱血医師  <川越の先人 高林謙三#1 製茶機械の発明で近代日本を救おうとした熱血医師   ・・・・・・・・・・・ 日本の近代産業の発展には、 輸出用に大量の茶 をつくることが必要でした。 茶の製造の機械化が輸出拡大のために求められていました。 お茶と生糸だけが、輸出できるものでした。 1858年アメリカとの条約が結ばれ、 国はますます貧しくなる一方でした。 ここに27歳の高林謙三は、国家百年の大計、国難のために、 製茶機械の発明 を決意したのです。 「茶葉の加工を機械化するしか輸出増加の道はない」と、 私財を投じて、製茶機械開発に全人生を賭ける ことにしました。 10代のときの師匠・権田直助のことばにもうたれたことでしょう。 「人の病は、国の病より小さい。 まずは国の病を治療すること が必要だ」。 後に「 茶の増産こそが国家百年の大計である」と 農商務大臣に提出した履歴書にもその思いを記しています。 1869年(明治2年)38歳の時から、高林謙三は数ヘクタールの土地を 喜多院近くに購入し 開墾して実験資料としての 茶園の経営 をはじめました。 ところで、製茶の機械化は一朝にして 出来るものではありませんでした。 医者を始めた頃にあった相当の財産も、 またたく間に消えてしまい、 自分自身が医者のお世話になるほどになってしまいました。 親類、縁者からも見放され、茶畑すらも とりあげられる始末となってしまいました。 ついには、医業のかたわらの無理な研究がたたってか、 肺病で喀血しました。 高林謙三は50歳をとうに過ぎていましたが、 医師をやめました。 岩沢家など川越商人の援助を受けながら 製茶機械の製作に没頭しました。 しかし、 工程に問題があるなどして、 高林謙三は 丹精込めた茶畑など財産を失いました。 その後1885年 54歳の時 専売特許法が施行されると出願し、特許をとりました。 66歳のときには、苦難の末に「 茶葉 粗揉(ちゃよう そじゅう)機 」を 遂に完成させました。  【※...