はてな?川越の先人_松平 信綱。島原・天草一揆で武断政治を文治政治に。川越藩一の名君 <川越の先人

はてな?川越の先人_松平信綱。島原・天草一揆で武断政治を文治政治に。川越藩一の名君 <川越の先人 
松平 信綱
・1596年12月19日- 1662年5月4日没。67歳

松平信綱は島原・天草一揆で武断政治に
「島原・天草一揆」は、日本で最後最大の一揆です。昔の教科書では「島原の乱」でした。

松平信綱が総責任者となり12万の軍勢で鎮圧します。
このあと家康・秀忠・家光の武断政治は、
文治政治に切り替わります。

松平信綱は、幕藩体制を完成させた主要人物です。
松平信綱は、「川越まつり」の祭礼を推奨します。  (2024/03/03 記)

知恵伊豆 松平信綱展 
川越市立博物館  2015年
松平信綱(のぶつな)は、
    川越の城下町の整備、
    野火止(のびどめ)用水の開削(かいさく)、
    新河岸(しんがし)川舟運(しゅううん)の開設、
    武蔵野新田の開発
などに手腕を発揮した川越一の藩主です。

 十ヶ町四門前(じっかちょう・しもんぜん)

1638年の川越大火後に、城域を倍増し、今に残る
    十ヶ町四門前(じっかちょう・しもんぜん)
という町割りをしました。


舟運は、知恵伊豆・松平(*)信綱が川越藩主になってから本格的に開かれました。
川越商人に莫大な利益をもたらしました。

【※】松平とは
松平とは、徳川氏の一門である他に、
徳川将軍が格式ある外様大名に授けた称号です。



江戸の技術文化を川越にたくさん伝えました。

三芳野神社の造営奉行でもありました。


川越まつりを始めたのも松平信綱です。

江戸の山車(だし)は東京では みこし になってしまいましたが、
川越の山車は江戸の様式をいまだに保存しています。
川越が
    小江戸(=ミニ江戸)といわれるゆえんです。

【3分】川越まつり 2000年
川越まつり概要  

1637年には島原・天草一揆(旧称・島原の乱)を、
12万以上の軍勢で鎮圧
しました。

幕府はフランス艦を使い、無言の威嚇をしていました。

フランス艦は、実は、オランダから借りた偽装艦でした。


松平信綱は、政治を
武断政治から文治政治にするため、
志願して、
島原・ 天草の一揆に のぞみました。

「島原・ 天草の一揆」鎮圧の功績により、
1639年忍(おし)藩主から川越藩主に出世しました。


松平信綱は、
島原・天草一揆がもう再びないように、
「お祭りで、この世を楽しく」との思いを込めてか、
「川越まつり」を奨励しました。


「川越まつり」は、松平信綱の「島原・天草の一揆」の反省から。文治政治の始まり

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松平信綱は、3代 家光が出生してから補佐し、
徳川幕府の老中首座もつとめ、
幕藩体制を固めました。


徳川家に59年にわたり奉仕しました。
特に家光には、家光の誕生以来47年間奉仕しました。


才知に富み、伊豆守という官職にかけて
「知恵伊豆」(= 知恵出づ)と言われました。



平林寺に廟所(びょうしょ)があります。
「知恵伊豆」をうたった小学校歌があるとのことです。
【※】平林寺(へいりんじ)のページ。松平信綱の墓地


3代 徳川家光は
「自分の右手は酒井忠勝(*)、
左手は松平信綱
と信頼を寄せました。


【※】酒井忠勝のことば
「信綱とは決して知恵くらべをしてはならない。あれは人間と申すものではない」


松平信綱は、自分の死の直前に、
関係書類を焼却しました。

カゲに徹するためでした。
肖像画も残っていません。


3代 家光から4代家綱の補佐をまかされていたため、
殉死(じゅんし。後追い自殺)はしませんでした。



川越の仙波東照宮 の1番大きな灯籠が松平信綱献上のものです。

生まれは埼玉県伊奈町です。


【YouTubeショーツ】
1 松平信綱



世のうわさ

「野火止(のびどめ)用水、
川越のまちづくり、
川越まつりで、

川越を小江戸にしてくれた川越藩一の名君・松平信綱を、
川越人はあまり口にしないですね。
家来になった川越人もいないようですし」

「本店の仕事がいそがしすぎて、支店には手が回らなかったようですね」

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【※】大河内(おおこうち)正敏
大河内(おおこうち)正敏
理化学研究所の理事長を務めた大河内正敏は、
松平信綱と同じく大河内松平家の系統です。

理化学研究所(理研)の3代目所長を25年間つとめました。
東大工学部卒で、貴族院議員でした。
大正天皇のご学友でした。
田中角栄を引き立てました。

明治になり、子孫は「松平」を返上しました。


【※】信綱のみこし
川越駅西口の 旭町にあります。





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