松平信綱。島原・天草一揆で武断政治を文治政治に。川越藩一の名君。5月4日没。 <川越の先人。5月4日没。 <川越の先人
(2024/03/03 記)
松平信綱は島原・天草一揆で武断政治に
「島原・天草一揆」は、日本で最後最大の一揆です。昔の教科書では「島原の乱」でした。
松平信綱が総責任者となり12万の軍勢で鎮圧します。
このあと家康・秀忠・家光の武断政治は、文治政治に切り替わります。
松平信綱は、幕藩体制を完成させた主要人物です。
松平信綱は、「川越まつり」の祭礼を推奨します。
キーワード:
松平信綱 「島原・天草一揆」 武断政治を文治政治に 幕藩体制を確立 徳川家光 川越を「小江戸」に 川越まつり
松平信綱(のぶつな)は、
川越の城下町の整備、
野火止(のびどめ)用水の開削(かいさく)、
新河岸(しんがし)川舟運(しゅううん)の開設、
武蔵野新田の開発、
などに手腕を発揮した川越一の藩主です。
十ヶ町四門前(じっかちょう・しもんぜん) |
1638年の川越大火後に、城域を倍増し、今に残る
十ヶ町四門前(じっかちょう・しもんぜん)
という町割りをしました。
舟運は、知恵伊豆・松平(*)信綱が川越藩主になってから本格的に開かれました。
川越商人に莫大な利益をもたらしました。
【※】松平とは
松平とは、徳川氏の一門である他に、
徳川将軍が格式ある外様大名に授けた称号です。
また江戸の技術文化もたくさん伝えました。
松平信綱は、川越を小江戸と称せられる基礎を築き上げました。
三芳野神社の造営奉行でもありました。
川越まつりを始めたのも松平信綱です。
江戸の山車(だし)は東京では みこし になってしまいましたが、
川越の山車は江戸の様式をいまだに保存しています。
川越が
小江戸(=ミニ江戸)といわれるゆえんです。
【3分】川越まつり 2000年
川越まつり概要
1637年には島原・天草一揆(旧称・島原の乱)を、
12万以上の軍勢で鎮圧しました。
幕府はフランス艦を使い、無言の威嚇をしていました。
フランス艦は、実は、オランダから借りた偽装艦でした。
【3分】川越まつり 2000年
川越まつり概要
1637年には島原・天草一揆(旧称・島原の乱)を、
12万以上の軍勢で鎮圧しました。
幕府はフランス艦を使い、無言の威嚇をしていました。
フランス艦は、実は、オランダから借りた偽装艦でした。
松平信綱は、政治を
武断政治から文治政治にするため、
志願して、島原・ 天草の一揆に のぞみました。
武断政治から文治政治にするため、
志願して、島原・ 天草の一揆に のぞみました。
「島原・ 天草の一揆」鎮圧の功績により、
1639年忍(おし)藩主から川越藩主に出世しました。
松平信綱は、
島原・天草一揆がもう再びないように、
島原・天草一揆がもう再びないように、
「お祭りで、この世を楽しく」との思いを込めてか、
「川越まつり」を奨励しました。
「川越まつり」は、松平信綱の「島原・天草の一揆」の反省から。文治政治の始まり
・・・・・・・・・・・
松平信綱は、3代家光が出生してから補佐し、
徳川幕府の老中首座もつとめ、
幕藩体制を固めました。
徳川家に59年にわたり奉仕しました。
特に家光には、家光の誕生以来47年間奉仕しました。
才知に富み、伊豆守という官職にかけて
「知恵伊豆」(= 知恵出づ)と言われました。
平林寺に廟所(びょうしょ)があります。
「知恵伊豆」をうたった小学校歌があるとのことです。
【※】平林寺(へいりんじ)のページ。松平信綱の墓地
徳川家光は
「自分の右手は酒井忠勝(*)、左手は松平信綱」
と信頼を寄せました。
【※】酒井忠勝の言
「信綱とは決して知恵くらべをしてはならない。あれは人間と申すものではない」
松平信綱は、自分の死の直前に、
関係書類を焼却しました。
カゲに徹するためでした。
肖像画も残っていません。
3代家光から4代家綱の補佐をまかされていたため、
殉死(じゅんし。後追い自殺)はしませんでした。
川越の仙波東照宮 の1番大きな灯籠が松平信綱献上のものです。
生まれは埼玉県伊奈町です。
【知恵伊豆】江戸幕府初期のスーパーブレーン「松平信綱」誕生!“小江戸川越”の生みの親! 【+5】
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松平信綱は、3代家光が出生してから補佐し、
徳川幕府の老中首座もつとめ、
幕藩体制を固めました。
徳川家に59年にわたり奉仕しました。
特に家光には、家光の誕生以来47年間奉仕しました。
才知に富み、伊豆守という官職にかけて
「知恵伊豆」(= 知恵出づ)と言われました。
平林寺に廟所(びょうしょ)があります。
「知恵伊豆」をうたった小学校歌があるとのことです。
【※】平林寺(へいりんじ)のページ。松平信綱の墓地
徳川家光は
「自分の右手は酒井忠勝(*)、左手は松平信綱」
と信頼を寄せました。
【※】酒井忠勝の言
「信綱とは決して知恵くらべをしてはならない。あれは人間と申すものではない」
松平信綱は、自分の死の直前に、
関係書類を焼却しました。
カゲに徹するためでした。
肖像画も残っていません。
3代家光から4代家綱の補佐をまかされていたため、
殉死(じゅんし。後追い自殺)はしませんでした。
川越の仙波東照宮 の1番大きな灯籠が松平信綱献上のものです。
生まれは埼玉県伊奈町です。
【知恵伊豆】江戸幕府初期のスーパーブレーン「松平信綱」誕生!“小江戸川越”の生みの親! 【+5】
【世のうわさ】
「野火止(のびどめ)用水、
川越のまちづくり、
川越まつりで、
川越を小江戸にしてくれた川越藩一の名君・松平信綱を、
川越人はあまり口にしないですね。
家来になった川越人もいないようですし」
「本店の仕事がいそがしすぎて、支店には手が回らなかったようですね」
・・・・・・・・・・・
【※】大河内(おおこうち)正敏
大河内(おおこうち)正敏 |
松平信綱と同じく大河内松平家の系統です。
理化学研究所(理研)の3代目所長を25年間つとめました。
東大工学部卒で、貴族院議員でした。
大正天皇のご学友でした。
田中角栄を引き立てました。
明治になり、子孫は「松平」を返上しました。
【※】信綱のみこし
川越駅西口の 旭町にあります。
川越駅西口の 旭町にあります。